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小選挙区制度はなぜ導入されたのか —— 「中身のない政治改革」が生んだ構造的な失敗

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1990年代、日本の政治は“改革”という言葉に酔っていました。 「政治改革こそが日本を変える」という掛け声のもと、制度を変えること自体が目的化した—— その結果生まれたのが、現在の 小選挙区比例代表並立制 です。 しかし、30年を経た今、私たちはその制度が生んだ弊害を目の当たりにしています。 なぜ日本は小選挙区制を導入したのか。 そして、それがなぜ“中身のない政治改革”に終わったのかを振り返ります。 改革のスローガン:「政治をカネからクリーンに」 1990年代初頭、政治不信が国中に蔓延していました。 きっかけは1988年の リクルート事件 。 政官財の癒着が明るみに出て、国民の怒りが爆発します。 当時のマスコミは「金権政治」「派閥支配」「55年体制の腐敗」といった言葉で政治を糾弾。 この世論の圧力の中で、「中選挙区制こそ金のかかる選挙の元凶だ」とする主張が急速に広まりました。 “政治をカネからクリーンにするために、小選挙区制を導入するべきだ。”   この単純なスローガンが、国民の耳に心地よく響いたのです。 しかし実際には、「制度を変えること」が目的化し、 政治の本質的な問題——政策・理念・構想——は後回し にされました。 政治改革ブームが生んだ「制度依存症」 1993年、細川護熙内閣が誕生。戦後初の非自民政権でした。 彼が掲げた目玉政策が、「政治改革」。 細川首相は演説で「政治の構造を変える」「古い体制を壊す」と強調しましたが、 その“中身”はほとんど制度変更の話に終始していました。 結果として成立したのが、1994年の 政治改革関連法 、すなわち「小選挙区比例代表並立制」の導入です。 政治家たちはこう信じていました。 “選挙制度を変えれば、政治が変わる。”   しかしこれはまさに、 制度さえ変えれば人間の行動が変わる という幻想。 実際には、制度が変わっても政治家の思考や行動は変わらず、 むしろ「制度に最適化した政治」が進んでいったのです。 小選挙区制の目的と現実 小選挙区制導入の目的は、主に次の3つでした。 政権交代を起こしやすくする 金のかからない選挙にする 政党政治を強化する しかし、30年後の現実はどうでしょう。 政権交代はわずか数回。しかも短命政権ばかり。 選挙費用は減らず、むし...

高市早苗首相誕生の意義とは? ― 日本政治の転換点を読み解く ―

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  2025年10月、日本初の女性首相として高市早苗氏が誕生しました。 この出来事は、単に「女性首相の誕生」という表面的な話題にとどまりません。 むしろ、日本政治の構造や価値観が変わりつつあることを象徴する、大きな転換点だといえます。 1. 歴史的意義 ― 女性リーダー誕生の重み 高市首相は、長らく男性中心であった日本の政治文化の中で、 地道に政策畑を歩んできた人物です。 総務大臣や経済安全保障担当大臣を務め、政策実務と国家観を兼ね備えた政治家として知られています。 女性首相の誕生は、日本の政治史上初の出来事。 これは単なる“多様性の象徴”ではなく、 「能力と信念があれば、誰もが国の舵を取れる」という民主主義の成熟を示す出来事ともいえます。 2. 政治主導の再構築 ― 官僚依存からの脱却へ 高市氏はかねてより「政治が責任を持つ国家運営」を掲げてきました。 これまで日本政治は、官僚主導・調整型政治と評されることが多く、 政策決定が国民に見えにくいという課題がありました。 高市政権の誕生は、 政治家自身が国家戦略を語り、決断を下す“政治主導”の復権を目指すものと位置づけられます。 この点は、日本政治がより自立的・能動的に動く第一歩とも捉えられます。 3. 「国家観」を明確に持つ政治家の登場 高市首相の特徴の一つは、国家観が明確であることです。 安全保障、経済政策、エネルギー、憲法問題に至るまで、 「どんな国を目指すのか」というビジョンを具体的に語ってきました。 こうした政治家の登場は、戦後日本ではむしろ少数派でした。 経済・外交・社会の分野で世界の変化が激しい今、 理念を基盤に政策を組み立てる姿勢が、政治の方向性を明確にする要素となります。 4. 民意の再結集 ― 有権者との距離を縮める政治へ 近年、日本の政治に対する不信感や無関心が高まっています。 しかし高市政権発足後は、 「政治が再び国民の目線に立つのではないか」という期待も生まれています。 とりわけ、高市首相が掲げる「暮らしを守る政治」「強い日本の再生」というメッセージは、 抽象的なスローガンではなく、物価高・防衛・エネルギーといった“生活の実感”に根ざした政策課題と直結しています。 この点において、高市政権は国民の関心を再び政治に向ける...

【完全解説】ステーブルコインとは?仕組み・種類・リスクをわかりやすく解説

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暗号資産(仮想通貨)といえば、ビットコインやイーサリアムが有名ですが、「価格の変動が大きくて怖い」という印象を持つ人も多いでしょう。 そんな中で注目を集めているのが、**ステーブルコイン(Stablecoin)**です。 この記事では、ステーブルコインの仕組みから種類、メリット・リスクまでをわかりやすく解説します。 ステーブルコインとは? **ステーブルコイン(Stablecoin)**とは、価格が安定するように設計された暗号資産のことです。 「Stable=安定した」「Coin=通貨」という名前の通り、ビットコインのように日々価格が大きく上下することを避け、 法定通貨(ドルや円など)と価値を連動 させています。 例えば、 1 USDT(テザー)=1ドル 1 JPYC(日本円ステーブルコイン)=1円 このように、現実の通貨とほぼ同じ価値で取引できるのが特徴です。 なぜステーブルコインが注目されているのか? 仮想通貨市場は価格の変動が激しく、投資にはリスクが伴います。 しかし、ステーブルコインはその「変動リスク」を抑えることで、次のような用途に適しています。 💸 送金・決済手段として使える  国境を越えた送金でも、手数料が安くスピーディーに送ることができます。 🏦 DeFi(分散型金融)での取引に便利  価格が安定しているため、担保や取引通貨として使いやすい。 💰 暗号資産市場での“安全資産”として機能  市場が不安定なとき、資金を一時的にステーブルコインに避難させる投資家も多いです。 ステーブルコインのメリット 🌏 国境を超えた送金が簡単・早い  従来の銀行送金よりも数分〜数秒で送金完了。 💲 価格が安定しているため、日常利用に適する  ボラティリティ(価格変動)が少ないため、決済や貯蓄にも使える。 🧩 ブロックチェーン技術を活用できる  DeFiやNFT市場など、デジタル経済の基盤となる。 ステーブルコインのリスク・注意点 安定をうたうステーブルコインにも、注意すべきポイントがあります。 ⚠️ 裏付け資産の不透明性  発行体が「本当に同額のドルを保有しているのか」疑問視された事例があります(例:Tether問題)。 ⚙️ アルゴリズ...

日本の米価は「高い」のではない──デフレ前の水準に戻っただけ 農業再生に必要なのは「農家戸別所得補償」か「価格保証政策」だ

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■ 「米が高い」という誤解 最近、SNSやニュースのコメント欄で「米が高くなった」「庶民の食卓を直撃している」といった声をよく見かけます。 しかし実際のところ、 現在の米価は決して“異常に高い”わけではありません。 むしろ、 長く続いたデフレによって不自然に低く抑えられていた価格が、ようやく本来の水準に戻った と見るべきなのです。 農林水産省の統計によれば、2024年産の主食用米の価格は60kgあたり13,000〜15,000円前後。 これは、 1990年代の水準とほぼ同程度 です。つまり、名目価格では「高い」と感じても、物価全体の上昇や円安を考慮すれば、 実質的にはむしろ安い部類 なのです。 ■ デフレ時代の“安すぎた米価”がもたらした弊害 デフレ期の日本では、消費者の購買力が伸びず、農産物価格も下落を続けました。 その結果、農家の経営は苦しくなり、 後継者不足・耕作放棄地の増加・集約化の遅れ など、構造的な問題が深刻化しました。 つまり、「安い米」は消費者にとって一時的にはありがたくても、 長期的には農業そのものを衰退させる要因 となっていたのです。 ■ 農業再生のカギは「価格とコストの差」を埋めること 農家の努力だけで価格競争に勝つことは、もはや不可能です。 海外の大規模農業や補助金政策に対抗するには、 日本政府が市場と生産コストのギャップを埋める仕組みを整える 必要があります。 その代表的な政策が以下の二つです。 ① 農家戸別所得補償制度 民主党政権時代に導入された制度で、 販売価格と生産コストの差額を農家に直接補填 する仕組みでした。 「バラマキ」と批判されがちでしたが、実際には 中小農家の経営安定を支え、離農防止に一定の効果を上げた と評価されています。 ② 価格保証・所得補償制度(複合モデル) 欧米では一般的な制度で、 市場価格が一定水準を下回った場合に国が差額を補てん します。 これにより、農家は安定的な経営が可能となり、国民も安定した価格で食料を確保できます。 つまり、「自由市場に任せればよい」という発想では、 食料安全保障も地域経済も守れない という現実があるのです。 ■ 米価を「適正化」することは国益である 食料は単なる商品ではなく、 国家の安全保障インフラ です。 日本の農業を守るということは、 輸入依存に偏らない食料供給体制を...

国民民主党は“いま”自民党と連立するべきではない理由

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――焦る必要はない。地に足のついた政治力を磨くときだ。 ここ最近、メディアで目にした「自民党と国民民主党の連立」という話。 しかし、これは明らかに時期尚早だ。 国民民主党はいま、 自らの力で存在感を築ける位置にいる。 だからこそ、連立に急ぐことは得策ではない。 それは“権力への近道”ではなく、“信頼を失う遠回り”にしかならない。 ■国民民主党は決して「小さな泡沫政党」ではない まず確認しておきたいのは、国民民主党の実力だ。 現在、衆議院で 27名の議員 を擁しており、党としての規模は決して小さくない。 また、代表・玉木雄一郎氏の知名度は特に若い世代の間で高く、 世論調査でも「立憲民主党より政策が現実的」「説明がわかりやすい」と評価される声が増えている。 つまり、国民民主党は もはや“無名の少数政党”ではない。 「地味だが信頼できる政党」として、確実に支持を広げつつある。 ■連立入りは“自民党の補完勢力”にされる危険が大きい それだけに、いま連立入りすれば「自民党に取り込まれた」との印象が避けられない。 少数与党として政権に加わっても、政策決定で発言力を持てる保証はない。 むしろ、自民党の方針を追認する「イエスマン」扱いされる可能性が高い。 短期的に注目を集めるかもしれないが、長期的には党の独自性を失う。 「第二の公明党」化 という危険が、そこにある。 ■小選挙区制度の壁――選挙区調整は“連立の最大の罠” さらに現実的な問題がある。 それは、小選挙区制度のもとでの 選挙区調整の困難さ だ。 自民党と連立を組めば、当然ながら「どの選挙区に候補を立てるか」を協議する必要が出てくる。 だが、自民党はすでに全国に現職議員を張り巡らせている。 国民民主党が候補を立てられる余地は、ほとんど残っていない。 このため、連立すれば「自民党現職がいる選挙区には立てるな」という暗黙の圧力がかかる可能性がある。 つまり、 選挙での戦う権利そのものを失う のだ。 これは、これから勢力を拡大しようとする国民民主党にとって致命的な制約になる。 ■焦る必要はない。国民民主党は確実に評価を高めている 世論調査では、国民民主党は決して無視できない位置につけている。 立憲民主党に比べれば支持率こそ低いが、 政策理解度・好感度ではむしろ上回る傾向がある。 特に、「現実的で聞く...

議員定数削減で何が起きるか? ―「政治改革」の名の下に進む民主主義の空洞化―

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「国会議員を減らせ」「税金の無駄だ」――こうした声は、世論調査でも常に高い支持を得ています。 現に、今の自民党と日本維新の会の連立協議の中で、 「議員定数の1割削減」を自民党が飲んだという報道もあります。 しかし、本当に議員定数削減は「改革」なのでしょうか? 実は、議員を減らすことは一見スッキリして見えても、民主主義の根幹を弱める危険な側面があります。 今回は、そのデメリットをわかりやすく解説します。 ■ ① 民意の多様性が失われる 議員定数を減らすということは、 一人の議員が代表する有権者の数が増える ということです。 たとえば、定数を10%減らせば、その分だけ一票の価値が軽くなり、少数意見が国政に届きにくくなります。 結果として、 大都市の意見がより強くなる 地方や少数派、若者、女性などの声が届きにくくなる という現象が起こります。 政治とは「多様な意見を反映する仕組み」です。議員を減らすというのは、まさにその多様性を削ることに他なりません。 ■ ② 政党の力がさらに強くなる 議員数が減れば、 公認を得られる候補者の数も減ります。 その結果、政党の「公認権」がこれまで以上に重みを増し、党中央に権力が集中します。 つまり、「誰が候補になれるか」を握る一部の党幹部の意向が政治全体を左右するようになるのです。 これは、政治家個人の独立性や地域代表性を損なう危険な流れです。 「議員を減らす=政治をスリム化」ではなく、「党本部の支配が強まる」という現実を直視する必要があります。 ■ ③ 政治の質が下がる 議員が減れば、委員会や政策立案を担う人材も減ります。 それなのに、法案や行政の監視、外交対応など国会の仕事は減りません。 つまり、 一人あたりの負担が増し、議論の質が下がる のです。 専門的な政策立案や現場調査に時間を割けず、官僚主導が進むという悪循環にもつながります。 結果的に「政治主導」ではなく、「官僚に頼る政治」が再び強まる恐れがあります。 ■ ④ 政治とお金の問題がむしろ悪化する 定数削減は「税金の節約」としてアピールされますが、実際の節約効果はごくわずかです。 国会議員一人あたりの歳費は年間約2,000万円程度。仮に50人減らしても、 国の予算全体から見れば0.001%にも満たない 額です。 それよりも深刻なのは、議席が減ること...

小選挙区制度の問題点-公認権の集中と政策なき選挙が民主主義を歪める

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日本の政治を語るうえで避けて通れないのが、 小選挙区比例代表並立制 という選挙制度です。1994年の政治改革で導入されたこの制度は、「政治の安定」「政権交代の実現」「政策本位の選挙」を目指して設計されました。 しかし30年近く経った現在、その理想とは大きくかけ離れています。むしろ、 公認権が党本部に集中し、政策が語られない選挙 という歪んだ構造を生んでしまいました。 公認権が党中央に集中する「ボトルネック構造」 小選挙区制では、1つの選挙区で当選できるのは たった1人 。そのため、同じ政党から複数の候補者を立てることはできません。結果として、「誰を公認するか」という党本部の判断が、候補者の命運を左右します。 つまり、 公認権を握る党中央部に絶大な権力が集中 するのです。地方組織や有権者の声よりも、党本部の意向が優先されます。そのため、議員は「次の選挙で公認を得るために、党方針に逆らえない」構造に陥ります。 結果として、国会議員の多くが 党本部の意向に従うだけの“サラリーマン政治家” になってしまうのです。地方の現場感覚や独自性を持つ議員ほど、かえって排除されやすくなっています。 政策なき選挙――「誰が何を主張しているのか」が見えない 本来、選挙は政策論争の場であるべきです。ところが小選挙区制では、選挙戦の焦点が「政策」ではなく「政党ブランド」や「人物人気」に偏ります。 与党候補は「党本部とのパイプ」や「地元への補助金」を強調し、野党候補は「政権批判」や「イメージ戦」に頼りがち。結果として、有権者が候補者の政策を比較する機会は減り、 「どの党から出ているか」で投票先が決まる 状態になっています。 この構造のもとでは、たとえ候補者が明確な政策ビジョンを持たなくても、党の看板や組織票だけで当選してしまう。つまり、 「政策を語らない政治家」が生き残り、「政策を訴える政治家」が淘汰される という逆転現象が起きているのです。 地方の声がかき消され、中央集権政治が進む 小選挙区制では、政党が「勝てる候補」を優先的に擁立します。その結果、地方出身者よりも、中央官庁出身や党本部に近い人物が選ばれるケースが増えています。 これにより、地方の実情を踏まえた政策が軽視され、 東京中心・官僚主導の政治 が強まっています。...

【政治の茶番】立憲民主党が野党第一党であることこそ、日本政治の最大の不幸である。

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もう正直、うんざりしている。 自民党が腐っているのは周知の事実。 でも、それを正すはずの「野党第一党」がこの体たらくでは、政治が良くなるわけがない。 そう、立憲民主党のことだ。 ■政策が“夢物語”レベル 立憲民主党が掲げる政策は、現実味がない。 「原発ゼロ」、「安保法制は違憲」、「食料品の減税」―― でも、実現までの道筋はまるでない。。 結局「いいことを言ってる自分たち」に酔ってるだけ。 言葉だけで国は変わらない。 現実を動かす覚悟がない。 そこが、立憲の致命的な“軽さ”だ。 ■「反自民」でしか存在意義を見出せない 立憲民主党は、常に「反自民」という看板でしか語れない。 「自民党が悪い」「政治を変える」――でも、じゃあどう変えるの?と聞けば、何も出てこない。 結局、やってることは「自民党の失点待ち」。 与党批判だけして、国民の信頼を勝ち取ろうなんて虫が良すぎる。 野党の仕事は批判じゃない。 “代案を示すこと”だ。 それを放棄して「我々は正義だ」と言い張る姿こそ、今の立憲民主党の病巣そのもの。 ■経済音痴すぎて笑えない そして致命的なのは、立憲が経済をまるでわかっていないこと。 「財政健全化」「支出の抑制」なんて言ってる時点で、自民党と同じ“緊縮脳”。 国民が貧困にあえいでいる中で、まだ「国の借金が~」と言っている。 家計が苦しいのに、水道の蛇口をさらに締めようとしてるようなものだ。 これじゃあ、自民党との違いは看板だけ。 「リベラル」を名乗る資格なんてない。 ■野党第一党がこのレベル…それが日本政治の悲劇 立憲民主党が野党第一党であり続ける限り、 自民党は永遠に安泰だ。 「選挙でどちらも選びたくない」――多くの国民がそう感じている。 その政治的無力感こそが、立憲の罪。 選挙のたびに“数合わせ”の共闘を繰り返し、 理念も信念もなく「反自民」だけで票を集めようとする。 結果、誰のための政治なのか、誰もわからない。 本来の野党とは、権力を監視し、現実的な対案で国を導く存在のはずだ。 だが今の立憲は、「批判だけが生きがい」の政党。 この国の政治を変えるどころか、停滞を固定化している。 自民党が腐っているのは、立憲民主党が“腐らせたまま放置している”からだ。 だから、 「立憲民主党が野党...

ノーベル経済学賞の茶番──“本物のノーベル賞”とは関係のない作られた栄誉

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毎年秋になると話題になる「ノーベル経済学賞」。 日本でも「経済学者が世界で認められた!」という報道が繰り返されますが、実はこの賞、“本来のノーベル賞ではない”ということをご存じでしょうか。 その背景を知ると、ノーベル経済学賞の「茶番ぶり」と「政治的性格」が浮かび上がってきます。 ■ ノーベル経済学賞はアルフレッド・ノーベルの遺志とは無関係 まず最初に指摘しておきたいのは、 ノーベル経済学賞は「正式なノーベル賞」ではない という点です。 これは単なる陰謀論でも揚げ足取りでもなく、 事実 です。 ダイナマイトの発明者アルフレッド・ノーベルが遺言によって創設した本来の賞は次の5つだけです。 物理学賞 化学賞 医学・生理学賞 文学賞 平和賞 これに「経済学賞」が含まれていないのは、ノーベル自身が 経済学という学問の“恣意性”や“政治的利用”を嫌っていた からだとされています。 ■ 経済学賞は「スウェーデン国立銀行」が勝手に作った賞 ではなぜ経済学賞が存在するのか。 その答えは1968年、スウェーデン国立銀行(リクスバンク)が自らの創立300周年を記念して創設したことにあります。 つまり、正式名称は 「アルフレッド・ノーベル記念 スウェーデン国立銀行経済学賞」   なのです。   ノーベル財団の管理下に“便宜上”置かれていますが、 ノーベル本人の遺産や遺志とは無関係 。 本来のノーベル賞に“寄生”した形で作られた後付けの賞にすぎません。 ■ 政治と金融資本が見え隠れする選考構造 さらに問題なのは、この経済学賞が 中立的な学術評価に基づいていない という点です。 多くの受賞者はアメリカの名門大学(ハーバード、シカゴ、MITなど)に集中しており、その背後には 国際金融資本や新自由主義的経済思想の正当化 が見え隠れします。 たとえば1980年代以降は、「市場原理」「グローバル化」「規制緩和」を称賛する理論を展開した学者が次々と受賞。 しかしその理論が現実経済に与えた影響──貧富の格差拡大、金融危機の連鎖──については一切の反省がありません。 つまりノーベル経済学賞は、 金融資本主義の理論的免罪符 として機能してきた側面があるのです。 ■ 経済は「科学」ではなく「価値判断の学問」である そもそも、経済学を「ノーベル賞の...

数合わせの亡霊に取り憑かれた立憲民主党──「2009年の悪夢」から何も学ばぬ野党第一党

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「政権交代こそ民主主義の証だ」──かつてそう叫んで権力を手にした政党があった。 2009年、民主党が歴史的勝利を収めたあの日、多くの国民は「政治が変わる」と信じた。 だが、結果はどうだったか…? わずか3年で崩壊し、日本政治に深い不信を残した。 そして今、立憲民主党が再び同じ過ちを繰り返そうとしている。 ■ 1. 2009年政権交代の「数合わせ」構造 民主党が政権を奪取した当時、その内部は「寄せ集め政党」だった。 旧社会党系、リベラル、元自民党の保守派、市民運動出身者──理念も方向もバラバラ。 ただ一つ共通していたのは、「自民党を倒したい」という情念だけだった。 結果、政権運営は混迷を極める。 マニフェストは実現不可能、外交では日米関係を悪化させ、経済政策も一貫性を欠いた。 「数合わせの勝利」は、国民にとって敗北だった 。 ■ 2. そして今──立憲民主党は同じ轍を踏む 立憲民主党の動きを見ていると、あの頃の悪夢がフラッシュバックする。 理念より打算、政策よりアピール。 そして、自力では勝てないと悟るや否や、国民民主党・玉木雄一郎代表を首班指名で担ごうとする。 まるで「他人の名前を借りて政権交代を演出する芝居」だ。 自党の代表さえ推せない野党第一党が、どうして国を率いる覚悟を語れるのか。 ■ 3. 政権交代の“手段化”がもたらす政治の堕落 そもそも、政権交代は「目的」ではなく「手段」である。 国の方向性を正すために行うものだ。 ところが立憲民主党は、政権交代そのものを目的化している。 「政権を取れば何とかなる」「とにかく今の政権を倒せばいい」という短絡的発想。 まさに、2009年の民主党と同じ病に冒されている。 理念がなく、数合わせだけで作った政権は、いずれ崩壊する。 それを身をもって経験したはずなのに、いまだに学習しない。 ■ 4. 「現実的な連立」か、「打算的な共闘」か 立憲民主党の一部は、「現実的な選択だ」「自民党に対抗するためには共闘が必要だ」と主張する。 しかし、それは政治的現実主義ではなく、 選挙的打算主義 に過ぎない。 現実主義とは、国の現状を直視し、責任を持って政策を提示することだ。 打算主義とは、理念を捨ててでも議席を増やすことを最優先にすること。  両者を混同している限り...

公明党との連立はなぜ「毒まんじゅう」と呼ばれるのか―自公連立の崩壊を機に考えてみる。

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自公連立が崩壊した今となっては、という話だが、公明党との連立は「毒まんじゅう」という表現が使われることがある。 「毒まんじゅう」とは、一見すると甘くおいしそうだが、食べれば命取り――つまり、「表向きは得に見えても、長期的には致命的な害をもたらす提携」や「魂を売る取引」を指す。 そして、まさにその象徴が 自民党と公明党の連立関係 だといわれている。 ■ 1. 公明党という“選挙マシン”の魔力 自民党にとって、公明党は長年にわたる「選挙の生命線」だ。 学会組織を基盤にした公明党は、全国津々浦々にまで浸透した組織票を持ち、選挙ごとに自民党候補を支えてきた。 地方区や接戦区では、この公明票が「勝敗を左右する決定打」となることも珍しくない。 そのため、自民党の議員たちは公明党との関係を切ることができない。 「毒まんじゅう」とはつまり、この“票の甘味”に依存してしまった状態を指す。 ■ 2. 政策の主導権が奪われる副作用 だが、このまんじゅうには明確な“毒”がある。 選挙支援と引き換えに、公明党は政策面で強い影響力を持つようになった。 たとえば―― 経済対策としての現金給付 防衛政策の制約(集団的自衛権の限定容認) 対外国人政策(主に、規制を緩くする面において) など、本来は自民党が主導すべき政策が、公明党の顔色をうかがう形で調整されてきた。 つまり、自民党が政権与党でありながら、 政策のブレーキを握られている のである。 ■ 3. 国民のための政治ではなく“連立のための政治”へ この構図の最も深刻な問題は、政治の目的が「国民のため」ではなく「連立維持のため」になってしまうことだ。 経済対策、外交、安全保障――どの議題でも、自民党がまず気にするのは「公明党が反対しないかどうか」。 結果として、政策は中途半端な妥協の産物となり、国家としての方向性が曖昧になる。 これが「毒まんじゅう」の真の意味だ。 最初は少しの譲歩だったはずが、いつのまにか主導権そのものを奪われてしまう。 ■ 4. 公明党にとっても“毒”になりつつある 一方、公明党にとっても、この連立は両刃の剣だ。 本来「庶民の味方」を掲げてきた公明党が、自民党と肩を並べて政権を支えることで、庶民感覚とかけ離れた政策にも責任を負うようになった。 その結果...

「決められない政治」が本当は正しい理由──拙速な決断が国を誤らせる

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「決められない政治を変えよう」。 このスローガンは、もはや日本の政治報道の常套句となっている。 しかし、その言葉に私たちは何度だまされてきただろうか。 「決める政治」を求めた結果、政治はスピードを得た代わりに、 熟考も説明も、そして信頼も失った。 ■ 「決める政治」がもたらした社会の分断 安倍政権以降、政治家たちはこぞって「スピード感」を強調した。 法案を数の力で押し切り、国会での議論を形式化。 「国民の理解より、決定が先」という発想が当たり前のようにまかり通った。 だがその結果、どうなったか。 事実上の移民受け入れ法、種子法の廃止、電力の自由化、増税政策――。 いずれも、国民に利益は少なく、特定の誰か(外国人投資家や資本家)の利益になっている。 確かに政治は早く進んだ。しかし、国民の心は置き去りにされた。 ■ 日本には「決めないこと」で支えてきた政治文化がある 戦後日本は、長らく「合意形成型の政治文化」を築いてきた。 官僚が慎重に根回しをし、自治体や業界団体の意見を丁寧に調整する。 この「面倒な過程」こそ、戦後日本の安定を支えてきた。 たとえば高度経済成長期、各省庁は企業と協議を重ね、 公共投資や雇用対策を地域単位で調整していた。 それが“遅い政治”だと言われたが、結果としてバランスを保っていたのだ。 「決められない政治」とは、裏を返せば「現場と社会を尊重する政治」だった。 ■ 「スピード政治」は現場を壊す 近年の政治は、「スピード感」を掲げるあまり、現場を疲弊させている。 たとえばデジタル化政策。 現場の行政職員が準備不足を訴えても、国は「もう決まったこと」と押し切る。 地方自治体の負担は増し、国民に不具合が押し寄せる。 また、コロナ対策でも、政府は「決める政治」を優先した。 給付金制度は場当たり的で、制度変更が頻発。 「とにかく早く決める」ことが、 かえって混乱を拡大させた のだ。 ■ 民主主義は「スピード競争」ではない 政治とは、経営ではない。 株価やKPIで評価できるものではない。 民主主義の本質は「異なる意見をどう共存させるか」にある。 だからこそ、 時間がかかるのが普通 だ。 決められないのは、意見が分かれているからであり、 それこそが社会が多様である証拠でもある。 拙速に「決める政治」は、少数意見を踏みにじり、 ...

立憲民主党の首班指名選挙での玉木氏推し──狙いは高市揺さぶりという不誠実

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国会の首班指名選挙で、立憲民主党が国民民主党の玉木雄一郎代表を担ごうとしている。 その理由として「野党共闘」や「柔軟な判断」といった耳ざわりのいい説明がされるかもしれない。 だが実際には、その裏にあるのは 高市早苗氏への揺さぶり という党利党略だ。 1. 野党第一党が他党代表を推す異常さ 本来、首班指名は「自党の代表こそ首相にふさわしい」と示す場だ。 しかし立憲民主党は、自らの代表ではなく玉木氏を推そうとしている。 これは「自党のリーダーに首相の器がない」と自ら認めるに等しい。 それでもなお玉木氏を担ぐのは、国民を思ってのことではない。 “高市氏の勢いを削ぐため”という政治ゲームの一環にすぎない。 2. 高市氏を恐れる立憲の計算 なぜ高市氏への揺さぶりなのか。 高市氏は自民党内で数少ない「積極財政」を掲げ、国民生活の底上げを訴えている。 これは緊縮志向に固執してきた立憲民主党にとって、最も都合が悪い存在だ。 もし高市氏が自民党の顔となれば、立憲の「財政規律」路線との差が鮮明になり、国民の生活を守る選択肢として自民党が再評価されかねない。 そこで、立憲は玉木氏を推し、あえて高市氏を孤立させ、影響力を削ぐ狙いを持っている。 つまり、国民のためではなく、 高市封じのために首班指名を利用している のだ。 3. そのツケを払うのは国民 こうした茶番劇の代償を背負うのは、政治家ではなく私たち国民だ。 そもそも立憲は「緊縮財政」の発想から抜け出せない。 消費税の引き上げ 社会保障の抑制 公共投資の削減 こうした政策が進めば、家計はますます厳しくなる。 「高市揺さぶり」という党利党略のために、私たちの暮らしが犠牲にされているのである。 4. 結論──国民生活より政局を優先する立憲民主党 立憲民主党が玉木氏を推す本当の狙いは「高市つぶし」。 これは国民を愚弄する行為であり、野党第一党としての責任を完全に放棄した姿勢だ。 国民が求めているのは「誰を蹴落とすか」ではなく「どう暮らしを守るか」だ。 それを忘れ、揺さぶりと打算ばかりに明け暮れる立憲民主党に未来はない。 てか、この立憲なんとか党に存在意義ってあるの…?? ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 人気ブログ...

自民党総裁選の危ういシナリオ──仮に党員票トップの高市氏が敗北すると開かれる“消滅への道”

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  いよいよ本日、自民党総裁選が行われる。候補者の中でも注目を集めるのが高市早苗氏と小泉進次郎氏だ。 仮に今回の総裁選で、 高市氏が党員票で圧倒的にトップを取りながら、決選投票で小泉氏に議員票で逆転される ──そんな展開になったら、自民党はどんな未来を迎えるだろうか。 結論から言えば、それは自民党の“自壊”を早め、支持をさらに大きく失う分岐点になるだろう。 1. 党員と議員の断絶が露呈する 総裁選は「党員票」と「議員票」で構成される。 もしも党員票で高市氏が明確に1位となれば、それは 草の根の自民党支持者の意思表示 だ。地方や中小企業、保守層の強い期待が高市氏に集まった証となる。 しかし、前回と同様にそれを議員票でひっくり返し、小泉氏が総裁になるような展開になれば── 「自民党は党員の声を無視する政党」という烙印を押されることになる。 2. 小泉候補の“軽さ”が致命傷に 小泉氏は知名度が高い一方、政策の具体性や中身に乏しいという批判が根強い。 仮に議員票で逆転したとしても、国民はこう見るだろう。 「結局、自民党は人気やイメージだけでトップを選んだのか」 「政策よりもパフォーマンスを優先する幼稚な政党だ」 高市氏が掲げる積極財政や科学技術投資といった“比較的まともな政策”を押しのけてまで、小泉氏を担ぎ出した議員たち。 その判断の軽さは、国民の信頼をさらに失わせることになる。 小泉なんか担ぎ上げて、次の選挙が有利になると考えているのだとすれば、妄想はなはだしい。 3. 「国民不在」の政治の象徴に 総裁選は、自民党にとって国民に政策を示す大きなチャンスだ。 ところが、党員票を無視して議員票で小泉氏を選んだなら、それは「国民不在」の政治を象徴する出来事となる。 国民はこう受け止めるだろう。 「やはり自民党は自分たちの利権と都合で動くだけの政党だった」 この失望感は一過性のものではなく、次の選挙での投票行動に確実につながる。 4. 自民党消滅へのシナリオ 国民の声を軽視し続ける政党は、やがて支持を失い、組織そのものが崩壊していく。 党員票トップの高市氏を押しのけ、小泉氏を総裁に据えるような愚を犯せば── 草の根支持層の離反 保守層の見限り 無党派層からの強い反発 これらが重なり、自民党は“支持率低下スパイラル”に陥るだろう。 そ...

高市早苗氏の政策が“比較的まとも”といえる理由とは?

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自民党総裁選が近づくと、各候補の政策に注目が集まります。派閥の力学や人気取りのパフォーマンスに終始する候補も多い中で、「高市早苗氏の政策は比較的まともではないか」という声も少なくありません。 なぜ高市氏の政策がそう評価されるのか──その理由を整理してみましょう。 1. 経済政策における「積極財政」志向 自民党には財務省に追随して緊縮財政を主張する候補が少なくありません。 しかし高市氏は「プライマリーバランス黒字化目標」にこだわらず、国債発行を含めた積極的な財政出動が必要だとかねてから発言してきました。 デフレから完全に脱却できていない日本経済にとって、これは現実的で筋の通った考え方です。国民生活を支えるためには、財政規律よりも経済成長と雇用維持を優先すべきだからです。 2. 科学技術・防災投資を重視 高市氏が打ち出す政策には、「科学技術立国」「インフラ防災投資」といった具体的テーマが並びます。 これらは単なる人気取りではなく、将来の成長や安全保障に直結する分野。 たとえば災害大国である日本では、防災インフラへの投資は人命を守ると同時に、地域経済を下支えする効果も期待できます。こうした中長期的な視点を示す点は他候補より評価できます。 3. 緊縮一辺倒ではない姿勢 他の候補が「財政再建」を錦の御旗にして、結局は増税と給付削減につながる政策を打ち出す中、高市氏は必ずしもその路線に乗っていません。 「国民生活を守るために財政を柔軟に使う」という姿勢は、現実の経済状況を踏まえた上でのバランス感覚といえるでしょう。 4. 国民へのメッセージ性 高市氏の発言には是非の分かれる部分も多いですが、少なくとも「国民にどういう未来像を示すか」というメッセージが比較的明確です。 「科学技術」「防災」「積極財政」──これらのキーワードは生活者にとってイメージしやすく、単なるスローガンに終わらない点は評価できます。 結論──“まとも”の基準は「現実を直視しているか」 もちろん高市氏の政策が完璧というわけではありません。安全保障や憲法改正など、議論を呼ぶテーマも含んでいます。 しかし、少なくとも経済政策に関しては「緊縮一辺倒ではない」「国民生活の現実を直視している」という点で、他の総裁候補に比べて“比較的まとも”といえるのです。 総裁選は派閥の力学で決まりがちですが、有権者としては候補...

「減税の財源」という謎理論──ガソリン暫定税率廃止を巡る自民党のごまかしを許してはならない

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ガソリン価格の高騰に苦しむ国民にとって、「ガソリン暫定税率の廃止」は長年の悲願だ。暫定と言いながら半世紀以上続き、国民の生活費をじわじわと奪い続けてきた負担。これをなくせば、多くの家庭や物流業者にとって大きな助けとなる。 ところが、いざ廃止の議論が出てくると、自民党から必ず聞こえてくるのが「減税の財源をどうするのか」という言葉だ。だが、このフレーズこそが日本政治の病巣を示す“意味不明な理論”である。 減税に財源はいらない そもそも「減税」とは、国民から徴収する税金を減らすことだ。国が新たに支出を増やすわけではない。にもかかわらず「財源が必要だ」と言い張るのは論理破綻もいいところだ。 支出を増やすときに財源を議論するのは分かる。しかし減税は「国民のお金を取り上げる手を緩める」だけの話。そこに財源など存在しない。あるとすれば、減税を阻止したい財務省と、それに追従する自民党の“言い訳”だけだ。 なぜ「財源論」が繰り返されるのか 実はこの「減税の財源」という言葉は、国民を煙に巻くための魔法のフレーズだ。 「財源がないから仕方ない」と言われれば、多くの人はなんとなく納得してしまう。だが実際には、財源がないのではなく、 国民から取ることをやめたくないだけ なのだ。 いや、というよりも財務省の顔色を見て減税を阻止したいだけ? 暫定税率を続けてきた理由もまさにそこにある。国民の生活を犠牲にしてでも、税収を確保し財務省の顔を立てることを優先してきた。その思考の延長線上に「減税の財源」という虚構がある。 自民党政治の倒錯 本来、政治の役割は国民の暮らしを守ることだ。生活必需品であるガソリンの税を軽くし、家計を支えることは当然の政策判断であるはずだ。 それを「減税には財源が必要だ」などと唱え、あたかも国民のために苦渋の選択をしているかのように演出する。実態は、 国民よりも財務省の顔色を優先しているだけ だ。 この倒錯した政治姿勢こそ、いまの自民党が国民から信頼を失いつつある最大の理由だろう。 虚構の財源論に騙されるな 「減税の財源」という言葉に騙されてはいけない。 ガソリン暫定税率の廃止に財源など不要だ。必要なのは、国民の生活を第一に考える政治的な意思である。 それを示すことができない限り、自民党の議論は単なるごまかしに過ぎない。そして、そのごまか...

「年収の壁」を放置してきた政治の怠慢──国民は不当に税を払わされてきたという事実

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日本の働き方を大きく歪めてきたのが「年収の壁」。 パートやアルバイトの人々が、 103万円・106万円・130万円 という年収ラインを超えないよう、必死に労働時間を調整してきた現実は、多くの家庭にとって“見えない鎖”となってきた。 政治家は長年これを知りながら放置してきた。結果として、働きたい人が十分に働けず、家計は縮小し、日本経済全体も萎縮してきた。だが、もっと深刻なのは、 この壁のせいで多くの人が不当に税金を多く払わされてきた という事実だ。 年収の壁は「隠れた増税」だった 本来ならば、収入が増えた分だけ家計が潤い、消費に回り、経済を回すはずだ。ところが「壁」を越えた瞬間、税金や社会保険料が一気に跳ね上がり、手取りが逆に減る。 つまり、働いた努力がそのまま「罰」として返ってくる構造だ。これこそ、政治がつくった 隠れた増税システム にほかならない。 「壁」を越えた人たちは、本来よりも過大な税負担を強いられ、実質的に不当に損をしてきたのだ。 政治が怠慢だった30年 バブル崩壊以降、非正規雇用が拡大し、パートやアルバイトが家庭を支える存在になったのは誰の目にも明らかだった。にもかかわらず、「年収の壁」は見直されることなく温存され続けた。 その間、国民は「働きすぎれば損をする」という理不尽な仕組みに縛られ、結果的に“過剰な税と保険料”を払わされてきた。 これを「制度の歪み」と軽く言う政治家がいるが、実態は単なる 政治の怠慢と裏切り である。 引き上げに反対する政治家の愚かさ ここに来てようやく「年収の壁を引き上げるべきだ」という声が高まっているが、それすら反対する政治家がいる。 広島県選出のなんとか洋一さんとかね…。 彼らは「財源が心配」「社会保障制度が崩れる」と繰り返す。しかし、そもそもこれまで壁を放置してきたこと自体が国民に余分な負担を押し付けてきたのだ。つまり、 すでに国民から巻き上げた“隠れ増税”の上に安住してきた だけにすぎない。 この愚かさは、もはや政策判断の問題ではなく、国民を軽視する姿勢そのものだ。 結論──国民の努力に報いる社会へ 「年収の壁」は、国民の働く意欲を縛り、不当に税を奪ってきた制度である。 いま求められているのは、単なる「小手先の調整」ではない。これまで奪ってきた分を反省し、国民の努力に正当に報いる社会をつくることだ。 ...