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鈴木憲和農林水産大臣「米価はマーケットが決めるもの」──増産撤回の真意は“農家の所得を守る”こと 表面的な「放任発言」ではなく、現場を守る冷静な判断

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■ 鈴木憲和農水相の「米価はマーケットが決める」発言とは 2025年秋、鈴木憲和農林水産大臣が記者会見で語った 「米価はマーケットが決めるもの」 という言葉が話題になりました。   一見すると、「政府は米価に口を出さない」「農家を突き放した」ように聞こえるこの発言。 しかしその背景には、 むしろ農家の所得を守るための冷静な現実認識 があります。 鈴木大臣が同時に打ち出した「増産方針の撤回」も、同じ文脈で理解する必要があります。 つまり、「作れば作るほど米価が下がる」という悪循環を避け、 農家の経営を守る方向への転換 なのです。 ■ なぜ「増産方針」を撤回したのか 長年、日本の米市場は需要と供給のバランスが崩れがちでした。 国内の米消費量は1960年代の半分以下に減少。 それにもかかわらず、各地で「増産」を進めれば、当然ながら供給過剰となり、価格が崩れます。 米価が下がれば、農家の所得は直撃を受けます。 鈴木憲和大臣の判断は、まさにこの現実を踏まえた「農家を守るための増産撤回」なのです。 「増やせば喜ばれる時代」から、 「守るためにあえて抑える時代」へ。   これは単なる方針変更ではなく、 農政の発想転換 にほかなりません。 ■ 「マーケットが決める」というのは“放任”ではない 「マーケットが決める」と言うと、「市場に丸投げ」と誤解されがちですが、 鈴木大臣の真意はそうではありません。 彼が重視しているのは、 価格の操作ではなく、所得の安定 です。 市場原理を尊重しつつ、価格下落時に農家を守るための支援を整える。 つまり、「価格は市場が決めるが、所得は政府が守る」――これが鈴木大臣の一貫した考え方です。 ■ 農家の所得を守るには、「価格保証」か「所得補償」しかない 日本農業が直面する最大の課題は、 価格変動のリスクをどう吸収するか です。 米価を上げることは難しくても、 所得を安定させる政策 を整えれば、農家は安心して生産に取り組めます。 そのための手段が次の二つです。 ▪ 農家戸別所得補償制度 販売価格と生産コストの差額を政府が補填する仕組み。 民主党政権下で導入され、農家の安定に一定の成果を上げました。 ▪ 米価差額補填・価格保証政策 市場価格が一定水準を下回った場合に国が差額を補てんする制度。 欧米諸国では一般的で、...

高市首相の所信表明演説にヤジを飛ばす立憲民主党|国会の品位を壊す「野次文化」の終焉を

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国会でまたヤジ──高市首相の演説を妨害した立憲民主党議員たち 高市早苗首相の所信表明演説。 新たな政権の方向性を示す、まさに日本の針路を定める重要な演説の場でした。 しかし、その厳粛な空気をぶち壊したのが、 立憲民主党議員による執拗なヤジ でした。 高市首相が真剣に政策を語る中で、ヤジが飛び議場全体がざわつく始末。 これが日本の「政治の中心」で行われていることだと思うと、 国民として本当に情けなくなります。 ヤジで政策が止まる──議論を拒む「反射的批判」体質 高市首相の演説は、防衛・経済・子育て支援など、 日本が直面する課題に正面から向き合う内容でした。 それにもかかわらず、立憲民主党の一部議員は内容を聞く前から「反対ありき」。 まるで相手の顔を見ただけで否定する「反射的反対」です。 ヤジを飛ばすことは、政策を否定する以前に「議論を拒む行為」。 しかも国会中継で全国に映る中でそれをやるのですから、 自ら「議論ができない政党」であることをアピールしているようなものです。 立憲民主党の擁護発言が火に油を注ぐ さらに問題なのは、その後の立憲民主党幹部の対応です。 一部の幹部が記者の質問に対して、 「ヤジも民主主義の一部だ」「活発な議論の表れ」といった発言をしたのです。 しかし、ヤジは議論ではありません。 相手の発言を妨げる行為であり、 民主主義の破壊そのもの です。 「活発な議論」を口実に、相手を罵倒しても許されると考えているなら、 それは民主主義ではなく 幼稚なケンカ文化 です。 国民の前で恥をさらす政治家たち 所信表明演説は、内閣の基本方針を国民に説明する重要な儀式です。 その場でヤジを飛ばすことは、 首相個人への侮辱ではなく、「国民に対する無礼」でもあります。 国民の代表として選ばれた議員が、 「声を荒げて妨害する」ことを誇るようになってしまえば、 政治は完全に信頼を失います。 しかも高市首相は冷静に演説を続け、ヤジに反応することなく話を進めました。 その対比が、立憲民主党側の未熟さをより際立たせたとも言えるでしょう。 ヤジを「伝統」と言い張る時代は終わった かつては「国会ではヤジも文化の一部」と言われました。 しかし、令和の時代にそれを正当化するのは時代錯誤です。 SNSでは若者たちが真剣に社会問題を議論し、 YouTubeでは政...

小選挙区制度はなぜ導入されたのか —— 「中身のない政治改革」が生んだ構造的な失敗

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1990年代、日本の政治は“改革”という言葉に酔っていました。 「政治改革こそが日本を変える」という掛け声のもと、制度を変えること自体が目的化した—— その結果生まれたのが、現在の 小選挙区比例代表並立制 です。 しかし、30年を経た今、私たちはその制度が生んだ弊害を目の当たりにしています。 なぜ日本は小選挙区制を導入したのか。 そして、それがなぜ“中身のない政治改革”に終わったのかを振り返ります。 改革のスローガン:「政治をカネからクリーンに」 1990年代初頭、政治不信が国中に蔓延していました。 きっかけは1988年の リクルート事件 。 政官財の癒着が明るみに出て、国民の怒りが爆発します。 当時のマスコミは「金権政治」「派閥支配」「55年体制の腐敗」といった言葉で政治を糾弾。 この世論の圧力の中で、「中選挙区制こそ金のかかる選挙の元凶だ」とする主張が急速に広まりました。 “政治をカネからクリーンにするために、小選挙区制を導入するべきだ。”   この単純なスローガンが、国民の耳に心地よく響いたのです。 しかし実際には、「制度を変えること」が目的化し、 政治の本質的な問題——政策・理念・構想——は後回し にされました。 政治改革ブームが生んだ「制度依存症」 1993年、細川護熙内閣が誕生。戦後初の非自民政権でした。 彼が掲げた目玉政策が、「政治改革」。 細川首相は演説で「政治の構造を変える」「古い体制を壊す」と強調しましたが、 その“中身”はほとんど制度変更の話に終始していました。 結果として成立したのが、1994年の 政治改革関連法 、すなわち「小選挙区比例代表並立制」の導入です。 政治家たちはこう信じていました。 “選挙制度を変えれば、政治が変わる。”   しかしこれはまさに、 制度さえ変えれば人間の行動が変わる という幻想。 実際には、制度が変わっても政治家の思考や行動は変わらず、 むしろ「制度に最適化した政治」が進んでいったのです。 小選挙区制の目的と現実 小選挙区制導入の目的は、主に次の3つでした。 政権交代を起こしやすくする 金のかからない選挙にする 政党政治を強化する しかし、30年後の現実はどうでしょう。 政権交代はわずか数回。しかも短命政権ばかり。 選挙費用は減らず、むし...

高市早苗首相誕生の意義とは? ― 日本政治の転換点を読み解く ―

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  2025年10月、日本初の女性首相として高市早苗氏が誕生しました。 この出来事は、単に「女性首相の誕生」という表面的な話題にとどまりません。 むしろ、日本政治の構造や価値観が変わりつつあることを象徴する、大きな転換点だといえます。 1. 歴史的意義 ― 女性リーダー誕生の重み 高市首相は、長らく男性中心であった日本の政治文化の中で、 地道に政策畑を歩んできた人物です。 総務大臣や経済安全保障担当大臣を務め、政策実務と国家観を兼ね備えた政治家として知られています。 女性首相の誕生は、日本の政治史上初の出来事。 これは単なる“多様性の象徴”ではなく、 「能力と信念があれば、誰もが国の舵を取れる」という民主主義の成熟を示す出来事ともいえます。 2. 政治主導の再構築 ― 官僚依存からの脱却へ 高市氏はかねてより「政治が責任を持つ国家運営」を掲げてきました。 これまで日本政治は、官僚主導・調整型政治と評されることが多く、 政策決定が国民に見えにくいという課題がありました。 高市政権の誕生は、 政治家自身が国家戦略を語り、決断を下す“政治主導”の復権を目指すものと位置づけられます。 この点は、日本政治がより自立的・能動的に動く第一歩とも捉えられます。 3. 「国家観」を明確に持つ政治家の登場 高市首相の特徴の一つは、国家観が明確であることです。 安全保障、経済政策、エネルギー、憲法問題に至るまで、 「どんな国を目指すのか」というビジョンを具体的に語ってきました。 こうした政治家の登場は、戦後日本ではむしろ少数派でした。 経済・外交・社会の分野で世界の変化が激しい今、 理念を基盤に政策を組み立てる姿勢が、政治の方向性を明確にする要素となります。 4. 民意の再結集 ― 有権者との距離を縮める政治へ 近年、日本の政治に対する不信感や無関心が高まっています。 しかし高市政権発足後は、 「政治が再び国民の目線に立つのではないか」という期待も生まれています。 とりわけ、高市首相が掲げる「暮らしを守る政治」「強い日本の再生」というメッセージは、 抽象的なスローガンではなく、物価高・防衛・エネルギーといった“生活の実感”に根ざした政策課題と直結しています。 この点において、高市政権は国民の関心を再び政治に向ける...

中選挙区制の復活論が浮上?——政治家が「自由」を取り戻す選挙制度とは

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近年、永田町の一部で「中選挙区制を見直すべきではないか」という議論が再び熱を帯びています。 1994年の選挙制度改革で小選挙区比例代表並立制が導入されて以降、日本の政治構造は大きく変わりました。 しかしその変化が、本当に「健全な政治」を育てたのか――疑問を呈する声が増えています。 ■ 中選挙区制とは何か 中選挙区制とは、1つの選挙区から複数の議員(通常3〜5名)が当選する制度です。 有権者は1票を投じ、その得票数の上位数名が議席を獲得します。 かつての日本の衆議院選挙(1993年まで)はこの制度が採用されていました。 一見すると、候補者同士が同じ政党内で競い合う“仲間割れ”のようにも見えますが、 実はこの構造こそが「政治家個人の力」を育て、「党に縛られない政治」を可能にしていました。 ■ 党中央に逆らっても当選できる仕組み 小選挙区制では、候補者の公認権を持つのは党の中央組織です。 党本部の意向に逆らえば「公認されない=立候補できない」ため、 地方議員も国会議員も、中央に頭が上がらなくなります。 その結果、党首や幹部の意向が絶対化し、 「異論を唱える政治家」が次々と姿を消していきました。 一方、中選挙区制では事情が違います。 同じ政党から複数の候補者が立候補できるため、 党本部が1人を推しても、別の候補が“地元の人気”で勝ち抜くことが可能です。 つまり、 党中央に逆らっても生き残る道がある。 この“逃げ道”こそが、政治家に独立心を与える最大の要因でした。 ■ 政治家の自由意思を守る制度 中選挙区制では、政治家は「党」ではなく「有権者」と直接向き合う姿勢を強めざるを得ません。 なぜなら、同じ選挙区内で同じ党の候補者と競うからです。 結果として、各議員が独自の政策・信念・地域密着型の活動を展開し、 「自分の言葉で語る政治家」が数多く生まれました。 この構造が、時に派閥政治を助長したという批判もありますが、 裏を返せば、それだけ 多様な意見と個性が政治に息づいていた とも言えるのです。 ■ 小選挙区制が奪ったもの 小選挙区制は、「政権交代を起こしやすくする」目的で導入されました。 しかし実際には、党内の多様性を奪い、 「中央が決めた候補を地元がただ支持する」構造を固定化してしまいました。 その結果、議員たちは党執行部の顔色をうかがうようにな...

国民民主党は“いま”自民党と連立するべきではない理由

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――焦る必要はない。地に足のついた政治力を磨くときだ。 ここ最近、メディアで目にした「自民党と国民民主党の連立」という話。 しかし、これは明らかに時期尚早だ。 国民民主党はいま、 自らの力で存在感を築ける位置にいる。 だからこそ、連立に急ぐことは得策ではない。 それは“権力への近道”ではなく、“信頼を失う遠回り”にしかならない。 ■国民民主党は決して「小さな泡沫政党」ではない まず確認しておきたいのは、国民民主党の実力だ。 現在、衆議院で 27名の議員 を擁しており、党としての規模は決して小さくない。 また、代表・玉木雄一郎氏の知名度は特に若い世代の間で高く、 世論調査でも「立憲民主党より政策が現実的」「説明がわかりやすい」と評価される声が増えている。 つまり、国民民主党は もはや“無名の少数政党”ではない。 「地味だが信頼できる政党」として、確実に支持を広げつつある。 ■連立入りは“自民党の補完勢力”にされる危険が大きい それだけに、いま連立入りすれば「自民党に取り込まれた」との印象が避けられない。 少数与党として政権に加わっても、政策決定で発言力を持てる保証はない。 むしろ、自民党の方針を追認する「イエスマン」扱いされる可能性が高い。 短期的に注目を集めるかもしれないが、長期的には党の独自性を失う。 「第二の公明党」化 という危険が、そこにある。 ■小選挙区制度の壁――選挙区調整は“連立の最大の罠” さらに現実的な問題がある。 それは、小選挙区制度のもとでの 選挙区調整の困難さ だ。 自民党と連立を組めば、当然ながら「どの選挙区に候補を立てるか」を協議する必要が出てくる。 だが、自民党はすでに全国に現職議員を張り巡らせている。 国民民主党が候補を立てられる余地は、ほとんど残っていない。 このため、連立すれば「自民党現職がいる選挙区には立てるな」という暗黙の圧力がかかる可能性がある。 つまり、 選挙での戦う権利そのものを失う のだ。 これは、これから勢力を拡大しようとする国民民主党にとって致命的な制約になる。 ■焦る必要はない。国民民主党は確実に評価を高めている 世論調査では、国民民主党は決して無視できない位置につけている。 立憲民主党に比べれば支持率こそ低いが、 政策理解度・好感度ではむしろ上回る傾向がある。 特に、「現実的で聞く...

議員定数削減で何が起きるか? ―「政治改革」の名の下に進む民主主義の空洞化―

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「国会議員を減らせ」「税金の無駄だ」――こうした声は、世論調査でも常に高い支持を得ています。 現に、今の自民党と日本維新の会の連立協議の中で、 「議員定数の1割削減」を自民党が飲んだという報道もあります。 しかし、本当に議員定数削減は「改革」なのでしょうか? 実は、議員を減らすことは一見スッキリして見えても、民主主義の根幹を弱める危険な側面があります。 今回は、そのデメリットをわかりやすく解説します。 ■ ① 民意の多様性が失われる 議員定数を減らすということは、 一人の議員が代表する有権者の数が増える ということです。 たとえば、定数を10%減らせば、その分だけ一票の価値が軽くなり、少数意見が国政に届きにくくなります。 結果として、 大都市の意見がより強くなる 地方や少数派、若者、女性などの声が届きにくくなる という現象が起こります。 政治とは「多様な意見を反映する仕組み」です。議員を減らすというのは、まさにその多様性を削ることに他なりません。 ■ ② 政党の力がさらに強くなる 議員数が減れば、 公認を得られる候補者の数も減ります。 その結果、政党の「公認権」がこれまで以上に重みを増し、党中央に権力が集中します。 つまり、「誰が候補になれるか」を握る一部の党幹部の意向が政治全体を左右するようになるのです。 これは、政治家個人の独立性や地域代表性を損なう危険な流れです。 「議員を減らす=政治をスリム化」ではなく、「党本部の支配が強まる」という現実を直視する必要があります。 ■ ③ 政治の質が下がる 議員が減れば、委員会や政策立案を担う人材も減ります。 それなのに、法案や行政の監視、外交対応など国会の仕事は減りません。 つまり、 一人あたりの負担が増し、議論の質が下がる のです。 専門的な政策立案や現場調査に時間を割けず、官僚主導が進むという悪循環にもつながります。 結果的に「政治主導」ではなく、「官僚に頼る政治」が再び強まる恐れがあります。 ■ ④ 政治とお金の問題がむしろ悪化する 定数削減は「税金の節約」としてアピールされますが、実際の節約効果はごくわずかです。 国会議員一人あたりの歳費は年間約2,000万円程度。仮に50人減らしても、 国の予算全体から見れば0.001%にも満たない 額です。 それよりも深刻なのは、議席が減ること...

小選挙区制度の問題点-公認権の集中と政策なき選挙が民主主義を歪める

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日本の政治を語るうえで避けて通れないのが、 小選挙区比例代表並立制 という選挙制度です。1994年の政治改革で導入されたこの制度は、「政治の安定」「政権交代の実現」「政策本位の選挙」を目指して設計されました。 しかし30年近く経った現在、その理想とは大きくかけ離れています。むしろ、 公認権が党本部に集中し、政策が語られない選挙 という歪んだ構造を生んでしまいました。 公認権が党中央に集中する「ボトルネック構造」 小選挙区制では、1つの選挙区で当選できるのは たった1人 。そのため、同じ政党から複数の候補者を立てることはできません。結果として、「誰を公認するか」という党本部の判断が、候補者の命運を左右します。 つまり、 公認権を握る党中央部に絶大な権力が集中 するのです。地方組織や有権者の声よりも、党本部の意向が優先されます。そのため、議員は「次の選挙で公認を得るために、党方針に逆らえない」構造に陥ります。 結果として、国会議員の多くが 党本部の意向に従うだけの“サラリーマン政治家” になってしまうのです。地方の現場感覚や独自性を持つ議員ほど、かえって排除されやすくなっています。 政策なき選挙――「誰が何を主張しているのか」が見えない 本来、選挙は政策論争の場であるべきです。ところが小選挙区制では、選挙戦の焦点が「政策」ではなく「政党ブランド」や「人物人気」に偏ります。 与党候補は「党本部とのパイプ」や「地元への補助金」を強調し、野党候補は「政権批判」や「イメージ戦」に頼りがち。結果として、有権者が候補者の政策を比較する機会は減り、 「どの党から出ているか」で投票先が決まる 状態になっています。 この構造のもとでは、たとえ候補者が明確な政策ビジョンを持たなくても、党の看板や組織票だけで当選してしまう。つまり、 「政策を語らない政治家」が生き残り、「政策を訴える政治家」が淘汰される という逆転現象が起きているのです。 地方の声がかき消され、中央集権政治が進む 小選挙区制では、政党が「勝てる候補」を優先的に擁立します。その結果、地方出身者よりも、中央官庁出身や党本部に近い人物が選ばれるケースが増えています。 これにより、地方の実情を踏まえた政策が軽視され、 東京中心・官僚主導の政治 が強まっています。...

公明党との連立はなぜ「毒まんじゅう」と呼ばれるのか―自公連立の崩壊を機に考えてみる。

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自公連立が崩壊した今となっては、という話だが、公明党との連立は「毒まんじゅう」という表現が使われることがある。 「毒まんじゅう」とは、一見すると甘くおいしそうだが、食べれば命取り――つまり、「表向きは得に見えても、長期的には致命的な害をもたらす提携」や「魂を売る取引」を指す。 そして、まさにその象徴が 自民党と公明党の連立関係 だといわれている。 ■ 1. 公明党という“選挙マシン”の魔力 自民党にとって、公明党は長年にわたる「選挙の生命線」だ。 学会組織を基盤にした公明党は、全国津々浦々にまで浸透した組織票を持ち、選挙ごとに自民党候補を支えてきた。 地方区や接戦区では、この公明票が「勝敗を左右する決定打」となることも珍しくない。 そのため、自民党の議員たちは公明党との関係を切ることができない。 「毒まんじゅう」とはつまり、この“票の甘味”に依存してしまった状態を指す。 ■ 2. 政策の主導権が奪われる副作用 だが、このまんじゅうには明確な“毒”がある。 選挙支援と引き換えに、公明党は政策面で強い影響力を持つようになった。 たとえば―― 経済対策としての現金給付 防衛政策の制約(集団的自衛権の限定容認) 対外国人政策(主に、規制を緩くする面において) など、本来は自民党が主導すべき政策が、公明党の顔色をうかがう形で調整されてきた。 つまり、自民党が政権与党でありながら、 政策のブレーキを握られている のである。 ■ 3. 国民のための政治ではなく“連立のための政治”へ この構図の最も深刻な問題は、政治の目的が「国民のため」ではなく「連立維持のため」になってしまうことだ。 経済対策、外交、安全保障――どの議題でも、自民党がまず気にするのは「公明党が反対しないかどうか」。 結果として、政策は中途半端な妥協の産物となり、国家としての方向性が曖昧になる。 これが「毒まんじゅう」の真の意味だ。 最初は少しの譲歩だったはずが、いつのまにか主導権そのものを奪われてしまう。 ■ 4. 公明党にとっても“毒”になりつつある 一方、公明党にとっても、この連立は両刃の剣だ。 本来「庶民の味方」を掲げてきた公明党が、自民党と肩を並べて政権を支えることで、庶民感覚とかけ離れた政策にも責任を負うようになった。 その結果...

「決められない政治」が本当は正しい理由──拙速な決断が国を誤らせる

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「決められない政治を変えよう」。 このスローガンは、もはや日本の政治報道の常套句となっている。 しかし、その言葉に私たちは何度だまされてきただろうか。 「決める政治」を求めた結果、政治はスピードを得た代わりに、 熟考も説明も、そして信頼も失った。 ■ 「決める政治」がもたらした社会の分断 安倍政権以降、政治家たちはこぞって「スピード感」を強調した。 法案を数の力で押し切り、国会での議論を形式化。 「国民の理解より、決定が先」という発想が当たり前のようにまかり通った。 だがその結果、どうなったか。 事実上の移民受け入れ法、種子法の廃止、電力の自由化、増税政策――。 いずれも、国民に利益は少なく、特定の誰か(外国人投資家や資本家)の利益になっている。 確かに政治は早く進んだ。しかし、国民の心は置き去りにされた。 ■ 日本には「決めないこと」で支えてきた政治文化がある 戦後日本は、長らく「合意形成型の政治文化」を築いてきた。 官僚が慎重に根回しをし、自治体や業界団体の意見を丁寧に調整する。 この「面倒な過程」こそ、戦後日本の安定を支えてきた。 たとえば高度経済成長期、各省庁は企業と協議を重ね、 公共投資や雇用対策を地域単位で調整していた。 それが“遅い政治”だと言われたが、結果としてバランスを保っていたのだ。 「決められない政治」とは、裏を返せば「現場と社会を尊重する政治」だった。 ■ 「スピード政治」は現場を壊す 近年の政治は、「スピード感」を掲げるあまり、現場を疲弊させている。 たとえばデジタル化政策。 現場の行政職員が準備不足を訴えても、国は「もう決まったこと」と押し切る。 地方自治体の負担は増し、国民に不具合が押し寄せる。 また、コロナ対策でも、政府は「決める政治」を優先した。 給付金制度は場当たり的で、制度変更が頻発。 「とにかく早く決める」ことが、 かえって混乱を拡大させた のだ。 ■ 民主主義は「スピード競争」ではない 政治とは、経営ではない。 株価やKPIで評価できるものではない。 民主主義の本質は「異なる意見をどう共存させるか」にある。 だからこそ、 時間がかかるのが普通 だ。 決められないのは、意見が分かれているからであり、 それこそが社会が多様である証拠でもある。 拙速に「決める政治」は、少数意見を踏みにじり、 ...

自民党総裁選の危ういシナリオ──仮に党員票トップの高市氏が敗北すると開かれる“消滅への道”

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  いよいよ本日、自民党総裁選が行われる。候補者の中でも注目を集めるのが高市早苗氏と小泉進次郎氏だ。 仮に今回の総裁選で、 高市氏が党員票で圧倒的にトップを取りながら、決選投票で小泉氏に議員票で逆転される ──そんな展開になったら、自民党はどんな未来を迎えるだろうか。 結論から言えば、それは自民党の“自壊”を早め、支持をさらに大きく失う分岐点になるだろう。 1. 党員と議員の断絶が露呈する 総裁選は「党員票」と「議員票」で構成される。 もしも党員票で高市氏が明確に1位となれば、それは 草の根の自民党支持者の意思表示 だ。地方や中小企業、保守層の強い期待が高市氏に集まった証となる。 しかし、前回と同様にそれを議員票でひっくり返し、小泉氏が総裁になるような展開になれば── 「自民党は党員の声を無視する政党」という烙印を押されることになる。 2. 小泉候補の“軽さ”が致命傷に 小泉氏は知名度が高い一方、政策の具体性や中身に乏しいという批判が根強い。 仮に議員票で逆転したとしても、国民はこう見るだろう。 「結局、自民党は人気やイメージだけでトップを選んだのか」 「政策よりもパフォーマンスを優先する幼稚な政党だ」 高市氏が掲げる積極財政や科学技術投資といった“比較的まともな政策”を押しのけてまで、小泉氏を担ぎ出した議員たち。 その判断の軽さは、国民の信頼をさらに失わせることになる。 小泉なんか担ぎ上げて、次の選挙が有利になると考えているのだとすれば、妄想はなはだしい。 3. 「国民不在」の政治の象徴に 総裁選は、自民党にとって国民に政策を示す大きなチャンスだ。 ところが、党員票を無視して議員票で小泉氏を選んだなら、それは「国民不在」の政治を象徴する出来事となる。 国民はこう受け止めるだろう。 「やはり自民党は自分たちの利権と都合で動くだけの政党だった」 この失望感は一過性のものではなく、次の選挙での投票行動に確実につながる。 4. 自民党消滅へのシナリオ 国民の声を軽視し続ける政党は、やがて支持を失い、組織そのものが崩壊していく。 党員票トップの高市氏を押しのけ、小泉氏を総裁に据えるような愚を犯せば── 草の根支持層の離反 保守層の見限り 無党派層からの強い反発 これらが重なり、自民党は“支持率低下スパイラル”に陥るだろう。 そ...

高市早苗氏の政策が“比較的まとも”といえる理由とは?

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自民党総裁選が近づくと、各候補の政策に注目が集まります。派閥の力学や人気取りのパフォーマンスに終始する候補も多い中で、「高市早苗氏の政策は比較的まともではないか」という声も少なくありません。 なぜ高市氏の政策がそう評価されるのか──その理由を整理してみましょう。 1. 経済政策における「積極財政」志向 自民党には財務省に追随して緊縮財政を主張する候補が少なくありません。 しかし高市氏は「プライマリーバランス黒字化目標」にこだわらず、国債発行を含めた積極的な財政出動が必要だとかねてから発言してきました。 デフレから完全に脱却できていない日本経済にとって、これは現実的で筋の通った考え方です。国民生活を支えるためには、財政規律よりも経済成長と雇用維持を優先すべきだからです。 2. 科学技術・防災投資を重視 高市氏が打ち出す政策には、「科学技術立国」「インフラ防災投資」といった具体的テーマが並びます。 これらは単なる人気取りではなく、将来の成長や安全保障に直結する分野。 たとえば災害大国である日本では、防災インフラへの投資は人命を守ると同時に、地域経済を下支えする効果も期待できます。こうした中長期的な視点を示す点は他候補より評価できます。 3. 緊縮一辺倒ではない姿勢 他の候補が「財政再建」を錦の御旗にして、結局は増税と給付削減につながる政策を打ち出す中、高市氏は必ずしもその路線に乗っていません。 「国民生活を守るために財政を柔軟に使う」という姿勢は、現実の経済状況を踏まえた上でのバランス感覚といえるでしょう。 4. 国民へのメッセージ性 高市氏の発言には是非の分かれる部分も多いですが、少なくとも「国民にどういう未来像を示すか」というメッセージが比較的明確です。 「科学技術」「防災」「積極財政」──これらのキーワードは生活者にとってイメージしやすく、単なるスローガンに終わらない点は評価できます。 結論──“まとも”の基準は「現実を直視しているか」 もちろん高市氏の政策が完璧というわけではありません。安全保障や憲法改正など、議論を呼ぶテーマも含んでいます。 しかし、少なくとも経済政策に関しては「緊縮一辺倒ではない」「国民生活の現実を直視している」という点で、他の総裁候補に比べて“比較的まとも”といえるのです。 総裁選は派閥の力学で決まりがちですが、有権者としては候補...

日本維新の会の連立入り模索──焦りと幼稚さが生む“薄っぺらい政治”

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一時は「第三極」として脚光を浴びた日本維新の会。だが、最近ではその勢いに陰りが見え、支持もじわじわと失われつつある。 その焦りからか、維新は自民党・公明党との連立入りを模索しているとささやかれている。 しかし、この動きは単なる政局の話ではない。そこには、維新という政党の 幼稚さと政策の薄っぺらさ 、さらには 有権者をだます詐欺的手法 が透けて見えるのだ。 焦りの背景──失われつつある支持 維新は「改革」「身を切る」といったキャッチーなフレーズで支持を集めてきた。 だが、その実績はどうか。大阪では教育・医療・福祉の削減、公共サービスの民営化が進み、「市民生活の質が低下した」という声が絶えない。 その実態が広く知られるにつれ、有権者の支持は徐々に離れていった。 そしていま、維新は“生き残り”をかけて自民・公明との連立に活路を見出そうとしているのだ。 幼稚な連立模索 連立入りの狙いは明白だ。 「自力では政権を取れない。ならば権力にすり寄るしかない」──その程度の発想である。 これは、政党としての独自性や理念を放棄し、ただ権力にぶら下がろうとする幼稚な姿勢に他ならない。 「改革」を唱えてきた政党が、結局は既存の権力に迎合する──この矛盾こそ、維新の正体を如実に物語っている。 薄っぺらい政策と詐欺的手法 維新の政策は、耳ざわりの良いスローガンばかりだ。 「身を切る改革」「既得権益の打破」──だがその中身を見れば、社会保障削減や民営化推進といった“負担の押し付け”ばかり。 しかも、その説明は詐欺的とさえ言える。 「効率化」と言えば聞こえはいいが、実際には住民サービスの切り捨て。 「財政健全化」と言えば聞こえはいいが、実際には国民への増税と給付削減。 キャッチコピーで国民を酔わせ、実態は冷酷な緊縮政策──これを「改革」と呼ぶのは、まさに詐欺的手法だろう。 連立が意味するもの もし維新が自民・公明との連立に加わればどうなるか。 緊縮財政はさらに加速し、社会保障は切り捨てられ、地方格差は拡大するだろう。 そして何より、国民にとっての最大の不幸は、「改革の旗手」として期待された維新が、結局は“権力の補完勢力”にすぎなかったことが白日の下にさらされることだ。 結論──「焦りの政治」に未来はない 維新の連立模索は、支持を失った政党の焦りと幼稚さの表れである。 その政策は...

小泉進次郎氏の“ステマ事案”──権力を握るためであれば汚い手も平気で使う醜態さ

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小泉進次郎氏といえば、若手のホープとして一時は「次期総理候補」とまで持ち上げられた存在だ。しかし最近報じられた“ステマ事案”は、彼の政治家としての資質に深刻な疑問符を投げかけている。 政治家が国民に向けて発信する言葉や行動は、公共性と透明性が求められるものだ。それにもかかわらず、企業や関係者と裏で結託し、宣伝行為を“こっそり”行う──これほど異様で幼稚な行動はない。 ステマの何が問題か ステマ(ステルスマーケティング)は、広告であることを隠して宣伝する行為だ。消費者にとって最も卑劣なのは、「公平な意見だと思ったら、実は宣伝だった」という点にある。 それを政治家が行えばどうなるか。 国民が「政策の一環だ」「政治信念の表明だ」と受け取ったものが、実際には特定の企業や団体との取引の一部に過ぎない。つまり、政治そのものが茶番と化すのだ。 政治家は国民の信頼を資本に活動する存在である。にもかかわらず、広告業者さながらに“やらせ”を仕込む時点で、その信頼を自ら踏みにじっている。 異様さと幼稚さ 特に小泉氏の場合、この行為の異様さと幼稚さが際立つ。 一見すると「イメージ戦略に熱心」とも取れるかもしれない。だが、やっていることは「SNSで褒めてもらうために裏工作をする」程度の次元にすぎない。まるで中学生が「友達にいいねを押してもらう」感覚で政治をしているかのようだ。 一国のリーダーを目指す人間が、こんな子供じみた振る舞いに走る──ここに、政治家としての成熟度の低さが如実に現れている。 国民を欺くことの罪 この問題の本質は、小泉氏が「国民を欺いた」という点にある。 政治家は説明責任を果たし、国民に対して正直であるべき立場だ。だが、ステマという手法を選んだ時点で、その原則をかなぐり捨てている。 国民にウソをついて信頼を得ようとする──そんな人物が、どうして総理大臣を目指せるのか。むしろ、政治の場に立つ資格すら疑われる。 ステマ政治の危うさ 小泉進次郎氏の“ステマ事案”は、一見小さなスキャンダルのように見えるかもしれない。だが、その根底には「国民を軽視する姿勢」と「政治家としての未熟さ」がはっきりと表れている。 もし政治がこのレベルの幼稚さで動かされるなら、日本の未来は暗い。 国民はこの異様さを見過ごしてはならない。小泉氏の行動を“若さの過ち”...

「減税の財源」という謎理論──ガソリン暫定税率廃止を巡る自民党のごまかしを許してはならない

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ガソリン価格の高騰に苦しむ国民にとって、「ガソリン暫定税率の廃止」は長年の悲願だ。暫定と言いながら半世紀以上続き、国民の生活費をじわじわと奪い続けてきた負担。これをなくせば、多くの家庭や物流業者にとって大きな助けとなる。 ところが、いざ廃止の議論が出てくると、自民党から必ず聞こえてくるのが「減税の財源をどうするのか」という言葉だ。だが、このフレーズこそが日本政治の病巣を示す“意味不明な理論”である。 減税に財源はいらない そもそも「減税」とは、国民から徴収する税金を減らすことだ。国が新たに支出を増やすわけではない。にもかかわらず「財源が必要だ」と言い張るのは論理破綻もいいところだ。 支出を増やすときに財源を議論するのは分かる。しかし減税は「国民のお金を取り上げる手を緩める」だけの話。そこに財源など存在しない。あるとすれば、減税を阻止したい財務省と、それに追従する自民党の“言い訳”だけだ。 なぜ「財源論」が繰り返されるのか 実はこの「減税の財源」という言葉は、国民を煙に巻くための魔法のフレーズだ。 「財源がないから仕方ない」と言われれば、多くの人はなんとなく納得してしまう。だが実際には、財源がないのではなく、 国民から取ることをやめたくないだけ なのだ。 いや、というよりも財務省の顔色を見て減税を阻止したいだけ? 暫定税率を続けてきた理由もまさにそこにある。国民の生活を犠牲にしてでも、税収を確保し財務省の顔を立てることを優先してきた。その思考の延長線上に「減税の財源」という虚構がある。 自民党政治の倒錯 本来、政治の役割は国民の暮らしを守ることだ。生活必需品であるガソリンの税を軽くし、家計を支えることは当然の政策判断であるはずだ。 それを「減税には財源が必要だ」などと唱え、あたかも国民のために苦渋の選択をしているかのように演出する。実態は、 国民よりも財務省の顔色を優先しているだけ だ。 この倒錯した政治姿勢こそ、いまの自民党が国民から信頼を失いつつある最大の理由だろう。 虚構の財源論に騙されるな 「減税の財源」という言葉に騙されてはいけない。 ガソリン暫定税率の廃止に財源など不要だ。必要なのは、国民の生活を第一に考える政治的な意思である。 それを示すことができない限り、自民党の議論は単なるごまかしに過ぎない。そして、そのごまか...

「年収の壁」を放置してきた政治の怠慢──国民は不当に税を払わされてきたという事実

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日本の働き方を大きく歪めてきたのが「年収の壁」。 パートやアルバイトの人々が、 103万円・106万円・130万円 という年収ラインを超えないよう、必死に労働時間を調整してきた現実は、多くの家庭にとって“見えない鎖”となってきた。 政治家は長年これを知りながら放置してきた。結果として、働きたい人が十分に働けず、家計は縮小し、日本経済全体も萎縮してきた。だが、もっと深刻なのは、 この壁のせいで多くの人が不当に税金を多く払わされてきた という事実だ。 年収の壁は「隠れた増税」だった 本来ならば、収入が増えた分だけ家計が潤い、消費に回り、経済を回すはずだ。ところが「壁」を越えた瞬間、税金や社会保険料が一気に跳ね上がり、手取りが逆に減る。 つまり、働いた努力がそのまま「罰」として返ってくる構造だ。これこそ、政治がつくった 隠れた増税システム にほかならない。 「壁」を越えた人たちは、本来よりも過大な税負担を強いられ、実質的に不当に損をしてきたのだ。 政治が怠慢だった30年 バブル崩壊以降、非正規雇用が拡大し、パートやアルバイトが家庭を支える存在になったのは誰の目にも明らかだった。にもかかわらず、「年収の壁」は見直されることなく温存され続けた。 その間、国民は「働きすぎれば損をする」という理不尽な仕組みに縛られ、結果的に“過剰な税と保険料”を払わされてきた。 これを「制度の歪み」と軽く言う政治家がいるが、実態は単なる 政治の怠慢と裏切り である。 引き上げに反対する政治家の愚かさ ここに来てようやく「年収の壁を引き上げるべきだ」という声が高まっているが、それすら反対する政治家がいる。 広島県選出のなんとか洋一さんとかね…。 彼らは「財源が心配」「社会保障制度が崩れる」と繰り返す。しかし、そもそもこれまで壁を放置してきたこと自体が国民に余分な負担を押し付けてきたのだ。つまり、 すでに国民から巻き上げた“隠れ増税”の上に安住してきた だけにすぎない。 この愚かさは、もはや政策判断の問題ではなく、国民を軽視する姿勢そのものだ。 結論──国民の努力に報いる社会へ 「年収の壁」は、国民の働く意欲を縛り、不当に税を奪ってきた制度である。 いま求められているのは、単なる「小手先の調整」ではない。これまで奪ってきた分を反省し、国民の努力に正当に報いる社会をつくることだ。 ...

これからもウマい飯を食うには、農家を公務員にするしかないよね、というお話。

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田んぼの水面や畑が朝日が照らされ始める頃、農家の一日の仕事が始まります。代々受け継がれてきた畑や田んぼ、そこで育つ野菜や米。毎日汗をかき、季節の移ろいに合わせながら食べ物を育てるその姿は、私たちの食卓の安心そのものです。 しかし現実は厳しいです。天候不順や輸入農産物との価格競争、後継者不足……農家の生活は常に不安定です。にもかかわらず、長年政権を握る自民党は、農家を本気で守る姿勢を示してきたとは言えませんね。 自民党政治の怠慢が生む不安 自民党は選挙のたびに農村を回り、「農業を守る」と口にします。しかし実際に行動してきたのは、輸入自由化や補助金削減など、農家の負担を増やす政策です。結果として、農家の生活はますます厳しくなり、若い世代は農業から離れていきます。所得が伸びる見込みがない業界に若者が寄り付くはずがないのです。 農家が苦しむ一方で、政府の政策は「財政規律」や「数字の上での効率」を優先。目の前で必死に働く農家の生活より、帳簿上の数字が優先される──そんな政治が続いているのです。 戸別補償制度の必要性 ここで重要になるのが、 農家戸別補償制度 です。農家一戸一戸に最低限の収入を保障することで、天候や市場の波に翻弄されず、安心して農業に取り組むことができます。 補償があれば、田んぼを守るお父さん、畑を整えるお母さん、農業を学ぶ若者たちも、将来に希望を持って農業に打ち込めます。農家の生活を守ることは、国民全体の食の安全を守ることにもつながります。 農家を“公務員化”するという発想 さらに議論されているのが、農家を公務員化する構想です。農家は私たちの食卓を支える“公共の仕事”を担っています。安全な食料を届け、耕作地を守り、地域社会を支える──これらはまさに国を支えるインフラの一部です。 公務員として安定した給与や保障を受けられれば、農家は安心して仕事に打ち込めます。若い世代も希望を持って農業に飛び込めます。ところが自民党の政治は、こうした制度の議論を後回しにしてきました。農家の不安を放置し、票田としての利用にとどめているのです。 農家にとってもっとも必要な、彼らの所得水準を守る(※減反政策以外で)、ことには全くと言っていいほど手を付けていないのです。 人間に寄り添う政治が必要 農家の方々に話を聞くと、いつも出てくる言葉は「作物を育てるのは好き。でも生活が不安だ」という...