「決められない政治」が本当は正しい理由──拙速な決断が国を誤らせる







「決められない政治を変えよう」。

このスローガンは、もはや日本の政治報道の常套句となっている。
しかし、その言葉に私たちは何度だまされてきただろうか。


「決める政治」を求めた結果、政治はスピードを得た代わりに、
熟考も説明も、そして信頼も失った。




■ 「決める政治」がもたらした社会の分断

安倍政権以降、政治家たちはこぞって「スピード感」を強調した。
法案を数の力で押し切り、国会での議論を形式化。
「国民の理解より、決定が先」という発想が当たり前のようにまかり通った。


だがその結果、どうなったか。
事実上の移民受け入れ法、種子法の廃止、電力の自由化、増税政策――。
いずれも、国民に利益は少なく、特定の誰か(外国人投資家や資本家)の利益になっている。


確かに政治は早く進んだ。しかし、国民の心は置き去りにされた。




■ 日本には「決めないこと」で支えてきた政治文化がある

戦後日本は、長らく「合意形成型の政治文化」を築いてきた。
官僚が慎重に根回しをし、自治体や業界団体の意見を丁寧に調整する。
この「面倒な過程」こそ、戦後日本の安定を支えてきた。


たとえば高度経済成長期、各省庁は企業と協議を重ね、
公共投資や雇用対策を地域単位で調整していた。
それが“遅い政治”だと言われたが、結果としてバランスを保っていたのだ。


「決められない政治」とは、裏を返せば「現場と社会を尊重する政治」だった。




■ 「スピード政治」は現場を壊す

近年の政治は、「スピード感」を掲げるあまり、現場を疲弊させている。


たとえばデジタル化政策。
現場の行政職員が準備不足を訴えても、国は「もう決まったこと」と押し切る。
地方自治体の負担は増し、国民に不具合が押し寄せる。


また、コロナ対策でも、政府は「決める政治」を優先した。
給付金制度は場当たり的で、制度変更が頻発。
「とにかく早く決める」ことが、かえって混乱を拡大させたのだ。




■ 民主主義は「スピード競争」ではない

政治とは、経営ではない。
株価やKPIで評価できるものではない。


民主主義の本質は「異なる意見をどう共存させるか」にある。
だからこそ、時間がかかるのが普通だ。
決められないのは、意見が分かれているからであり、
それこそが社会が多様である証拠でもある。


拙速に「決める政治」は、少数意見を踏みにじり、
社会の分断を加速させる。




■ 「決められない政治」を取り戻す勇気を

いま求められているのは、
「スピード感」ではなく「納得感」だ。


一つの決定に時間をかけてもいい。
むしろその過程こそが、国民と政治をつなぐ絆になる。


決められない政治とは、妥協と尊重の政治。


誰かを切り捨ててでも前に進む“決める政治”よりも、
時間をかけて全員が納得できる“決めない政治”のほうが、
はるかに誠実で、人間的だ。




■ 結論──「決められない政治」は民主主義の成熟形

「決められない政治」は、民主主義の欠陥ではない。
むしろ、それを悪と決めつける風潮こそ危険だ。


国民が政治の遅さに寛容である社会こそ、
本当に強い民主主義を持つ社会なのだ。




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