投稿

【長野久義 引退】“最後まで紳士”だった読売ジャイアンツ・長野久義選手の人柄と感動エピソード

イメージ
プロ野球・読売ジャイアンツの長野久義選手が、2025年シーズンをもって引退を発表しました。 長野選手といえば、華やかなプレーだけでなく「人柄の温かさ」や「思いやりある行動」でもファンやチームメイトから深く愛された選手です。 この記事では、 長野久義選手の優しい人間性を感じるエピソード を振り返りながら、ファンとしての感謝を込めて彼の野球人生をねぎらいます。 ■ 長野久義という選手:数字以上に“人”として輝いたスター 2009年ドラフト1位で念願の巨人入りを果たした長野久義選手。 首位打者、最多安打、ゴールデングラブ賞など、輝かしい実績を残しました。 しかし、多くのファンが心を打たれたのは、 打率や本塁打数ではなく、彼の人柄そのもの でした。 勝っても負けても仲間を気遣い、若手に声をかけ、相手チームへのリスペクトを忘れない。 そんな姿が、「ジャイアンツの良心」とまで呼ばれた理由です。 ■ 【感動】長野久義選手の“温かい人間性”が伝わるエピソード ① 食事代を“さりげなく”払う優しさ 若手選手が食事をしていたある日、会計をしようとしたところ、すでに「お支払い済み」と伝えられました。 後でわかったのは、長野選手が先に立て替えていたということ。 しかも彼は、誰にも言わずにそのまま店を出ていたそうです。 翌日「昨日はごちそうさまでした!」と声をかけられても、「あぁ、なんのこと?」と笑って誤魔化したという話が残っています。 その“さりげなさ”こそ、長野選手らしい優しさの象徴でした。 ② 若手に“前向きになるきっかけ”を残す キャンプ中、若手選手が練習で落ち込んでいたとき。 長野選手は自分の練習を中断して、「お前のスイング、去年よりずっと良くなってるぞ」と声をかけたそうです。 その言葉で救われたという若手は、「長野さんの一言でまた頑張ろうと思えた」と語っています。 成績や立場に関係なく、誰に対しても温かく接する—— そんな姿勢が、長野久義という人の真の魅力でした。 ③ 広島移籍でも見せた“気遣いの神対応” 2019年、広島東洋カープへ移籍した際も、彼の人間性は変わりませんでした。 背番号を決めるとき、空いていた「9」は緒方監督の現役時代の番号。 長野選手はそれを察して、あえて「5」を選択。 チームの空気を乱さないよう配慮した判断に、ファンだけでなく関係者も「本当...

ノーベル経済学賞の茶番──“本物のノーベル賞”とは関係のない作られた栄誉

イメージ
毎年秋になると話題になる「ノーベル経済学賞」。 日本でも「経済学者が世界で認められた!」という報道が繰り返されますが、実はこの賞、“本来のノーベル賞ではない”ということをご存じでしょうか。 その背景を知ると、ノーベル経済学賞の「茶番ぶり」と「政治的性格」が浮かび上がってきます。 ■ ノーベル経済学賞はアルフレッド・ノーベルの遺志とは無関係 まず最初に指摘しておきたいのは、 ノーベル経済学賞は「正式なノーベル賞」ではない という点です。 これは単なる陰謀論でも揚げ足取りでもなく、 事実 です。 ダイナマイトの発明者アルフレッド・ノーベルが遺言によって創設した本来の賞は次の5つだけです。 物理学賞 化学賞 医学・生理学賞 文学賞 平和賞 これに「経済学賞」が含まれていないのは、ノーベル自身が 経済学という学問の“恣意性”や“政治的利用”を嫌っていた からだとされています。 ■ 経済学賞は「スウェーデン国立銀行」が勝手に作った賞 ではなぜ経済学賞が存在するのか。 その答えは1968年、スウェーデン国立銀行(リクスバンク)が自らの創立300周年を記念して創設したことにあります。 つまり、正式名称は 「アルフレッド・ノーベル記念 スウェーデン国立銀行経済学賞」   なのです。   ノーベル財団の管理下に“便宜上”置かれていますが、 ノーベル本人の遺産や遺志とは無関係 。 本来のノーベル賞に“寄生”した形で作られた後付けの賞にすぎません。 ■ 政治と金融資本が見え隠れする選考構造 さらに問題なのは、この経済学賞が 中立的な学術評価に基づいていない という点です。 多くの受賞者はアメリカの名門大学(ハーバード、シカゴ、MITなど)に集中しており、その背後には 国際金融資本や新自由主義的経済思想の正当化 が見え隠れします。 たとえば1980年代以降は、「市場原理」「グローバル化」「規制緩和」を称賛する理論を展開した学者が次々と受賞。 しかしその理論が現実経済に与えた影響──貧富の格差拡大、金融危機の連鎖──については一切の反省がありません。 つまりノーベル経済学賞は、 金融資本主義の理論的免罪符 として機能してきた側面があるのです。 ■ 経済は「科学」ではなく「価値判断の学問」である そもそも、経済学を「ノーベル賞の...

数合わせの亡霊に取り憑かれた立憲民主党──「2009年の悪夢」から何も学ばぬ野党第一党

イメージ
「政権交代こそ民主主義の証だ」──かつてそう叫んで権力を手にした政党があった。 2009年、民主党が歴史的勝利を収めたあの日、多くの国民は「政治が変わる」と信じた。 だが、結果はどうだったか…? わずか3年で崩壊し、日本政治に深い不信を残した。 そして今、立憲民主党が再び同じ過ちを繰り返そうとしている。 ■ 1. 2009年政権交代の「数合わせ」構造 民主党が政権を奪取した当時、その内部は「寄せ集め政党」だった。 旧社会党系、リベラル、元自民党の保守派、市民運動出身者──理念も方向もバラバラ。 ただ一つ共通していたのは、「自民党を倒したい」という情念だけだった。 結果、政権運営は混迷を極める。 マニフェストは実現不可能、外交では日米関係を悪化させ、経済政策も一貫性を欠いた。 「数合わせの勝利」は、国民にとって敗北だった 。 ■ 2. そして今──立憲民主党は同じ轍を踏む 立憲民主党の動きを見ていると、あの頃の悪夢がフラッシュバックする。 理念より打算、政策よりアピール。 そして、自力では勝てないと悟るや否や、国民民主党・玉木雄一郎代表を首班指名で担ごうとする。 まるで「他人の名前を借りて政権交代を演出する芝居」だ。 自党の代表さえ推せない野党第一党が、どうして国を率いる覚悟を語れるのか。 ■ 3. 政権交代の“手段化”がもたらす政治の堕落 そもそも、政権交代は「目的」ではなく「手段」である。 国の方向性を正すために行うものだ。 ところが立憲民主党は、政権交代そのものを目的化している。 「政権を取れば何とかなる」「とにかく今の政権を倒せばいい」という短絡的発想。 まさに、2009年の民主党と同じ病に冒されている。 理念がなく、数合わせだけで作った政権は、いずれ崩壊する。 それを身をもって経験したはずなのに、いまだに学習しない。 ■ 4. 「現実的な連立」か、「打算的な共闘」か 立憲民主党の一部は、「現実的な選択だ」「自民党に対抗するためには共闘が必要だ」と主張する。 しかし、それは政治的現実主義ではなく、 選挙的打算主義 に過ぎない。 現実主義とは、国の現状を直視し、責任を持って政策を提示することだ。 打算主義とは、理念を捨ててでも議席を増やすことを最優先にすること。  両者を混同している限り...

公明党との連立はなぜ「毒まんじゅう」と呼ばれるのか―自公連立の崩壊を機に考えてみる。

イメージ
自公連立が崩壊した今となっては、という話だが、公明党との連立は「毒まんじゅう」という表現が使われることがある。 「毒まんじゅう」とは、一見すると甘くおいしそうだが、食べれば命取り――つまり、「表向きは得に見えても、長期的には致命的な害をもたらす提携」や「魂を売る取引」を指す。 そして、まさにその象徴が 自民党と公明党の連立関係 だといわれている。 ■ 1. 公明党という“選挙マシン”の魔力 自民党にとって、公明党は長年にわたる「選挙の生命線」だ。 学会組織を基盤にした公明党は、全国津々浦々にまで浸透した組織票を持ち、選挙ごとに自民党候補を支えてきた。 地方区や接戦区では、この公明票が「勝敗を左右する決定打」となることも珍しくない。 そのため、自民党の議員たちは公明党との関係を切ることができない。 「毒まんじゅう」とはつまり、この“票の甘味”に依存してしまった状態を指す。 ■ 2. 政策の主導権が奪われる副作用 だが、このまんじゅうには明確な“毒”がある。 選挙支援と引き換えに、公明党は政策面で強い影響力を持つようになった。 たとえば―― 経済対策としての現金給付 防衛政策の制約(集団的自衛権の限定容認) 対外国人政策(主に、規制を緩くする面において) など、本来は自民党が主導すべき政策が、公明党の顔色をうかがう形で調整されてきた。 つまり、自民党が政権与党でありながら、 政策のブレーキを握られている のである。 ■ 3. 国民のための政治ではなく“連立のための政治”へ この構図の最も深刻な問題は、政治の目的が「国民のため」ではなく「連立維持のため」になってしまうことだ。 経済対策、外交、安全保障――どの議題でも、自民党がまず気にするのは「公明党が反対しないかどうか」。 結果として、政策は中途半端な妥協の産物となり、国家としての方向性が曖昧になる。 これが「毒まんじゅう」の真の意味だ。 最初は少しの譲歩だったはずが、いつのまにか主導権そのものを奪われてしまう。 ■ 4. 公明党にとっても“毒”になりつつある 一方、公明党にとっても、この連立は両刃の剣だ。 本来「庶民の味方」を掲げてきた公明党が、自民党と肩を並べて政権を支えることで、庶民感覚とかけ離れた政策にも責任を負うようになった。 その結果...

「決められない政治」が本当は正しい理由──拙速な決断が国を誤らせる

イメージ
「決められない政治を変えよう」。 このスローガンは、もはや日本の政治報道の常套句となっている。 しかし、その言葉に私たちは何度だまされてきただろうか。 「決める政治」を求めた結果、政治はスピードを得た代わりに、 熟考も説明も、そして信頼も失った。 ■ 「決める政治」がもたらした社会の分断 安倍政権以降、政治家たちはこぞって「スピード感」を強調した。 法案を数の力で押し切り、国会での議論を形式化。 「国民の理解より、決定が先」という発想が当たり前のようにまかり通った。 だがその結果、どうなったか。 事実上の移民受け入れ法、種子法の廃止、電力の自由化、増税政策――。 いずれも、国民に利益は少なく、特定の誰か(外国人投資家や資本家)の利益になっている。 確かに政治は早く進んだ。しかし、国民の心は置き去りにされた。 ■ 日本には「決めないこと」で支えてきた政治文化がある 戦後日本は、長らく「合意形成型の政治文化」を築いてきた。 官僚が慎重に根回しをし、自治体や業界団体の意見を丁寧に調整する。 この「面倒な過程」こそ、戦後日本の安定を支えてきた。 たとえば高度経済成長期、各省庁は企業と協議を重ね、 公共投資や雇用対策を地域単位で調整していた。 それが“遅い政治”だと言われたが、結果としてバランスを保っていたのだ。 「決められない政治」とは、裏を返せば「現場と社会を尊重する政治」だった。 ■ 「スピード政治」は現場を壊す 近年の政治は、「スピード感」を掲げるあまり、現場を疲弊させている。 たとえばデジタル化政策。 現場の行政職員が準備不足を訴えても、国は「もう決まったこと」と押し切る。 地方自治体の負担は増し、国民に不具合が押し寄せる。 また、コロナ対策でも、政府は「決める政治」を優先した。 給付金制度は場当たり的で、制度変更が頻発。 「とにかく早く決める」ことが、 かえって混乱を拡大させた のだ。 ■ 民主主義は「スピード競争」ではない 政治とは、経営ではない。 株価やKPIで評価できるものではない。 民主主義の本質は「異なる意見をどう共存させるか」にある。 だからこそ、 時間がかかるのが普通 だ。 決められないのは、意見が分かれているからであり、 それこそが社会が多様である証拠でもある。 拙速に「決める政治」は、少数意見を踏みにじり、 ...

立憲民主党の首班指名選挙での玉木氏推し──狙いは高市揺さぶりという不誠実

イメージ
国会の首班指名選挙で、立憲民主党が国民民主党の玉木雄一郎代表を担ごうとしている。 その理由として「野党共闘」や「柔軟な判断」といった耳ざわりのいい説明がされるかもしれない。 だが実際には、その裏にあるのは 高市早苗氏への揺さぶり という党利党略だ。 1. 野党第一党が他党代表を推す異常さ 本来、首班指名は「自党の代表こそ首相にふさわしい」と示す場だ。 しかし立憲民主党は、自らの代表ではなく玉木氏を推そうとしている。 これは「自党のリーダーに首相の器がない」と自ら認めるに等しい。 それでもなお玉木氏を担ぐのは、国民を思ってのことではない。 “高市氏の勢いを削ぐため”という政治ゲームの一環にすぎない。 2. 高市氏を恐れる立憲の計算 なぜ高市氏への揺さぶりなのか。 高市氏は自民党内で数少ない「積極財政」を掲げ、国民生活の底上げを訴えている。 これは緊縮志向に固執してきた立憲民主党にとって、最も都合が悪い存在だ。 もし高市氏が自民党の顔となれば、立憲の「財政規律」路線との差が鮮明になり、国民の生活を守る選択肢として自民党が再評価されかねない。 そこで、立憲は玉木氏を推し、あえて高市氏を孤立させ、影響力を削ぐ狙いを持っている。 つまり、国民のためではなく、 高市封じのために首班指名を利用している のだ。 3. そのツケを払うのは国民 こうした茶番劇の代償を背負うのは、政治家ではなく私たち国民だ。 そもそも立憲は「緊縮財政」の発想から抜け出せない。 消費税の引き上げ 社会保障の抑制 公共投資の削減 こうした政策が進めば、家計はますます厳しくなる。 「高市揺さぶり」という党利党略のために、私たちの暮らしが犠牲にされているのである。 4. 結論──国民生活より政局を優先する立憲民主党 立憲民主党が玉木氏を推す本当の狙いは「高市つぶし」。 これは国民を愚弄する行為であり、野党第一党としての責任を完全に放棄した姿勢だ。 国民が求めているのは「誰を蹴落とすか」ではなく「どう暮らしを守るか」だ。 それを忘れ、揺さぶりと打算ばかりに明け暮れる立憲民主党に未来はない。 てか、この立憲なんとか党に存在意義ってあるの…?? ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 人気ブログ...

なぜ立憲民主党は“自民党の最大の応援団”なのか

イメージ
「自民党を倒す」と声高に叫ぶ立憲民主党。 だが現実を見れば、彼らほど自民党を助けている存在もない。 この党の最大の功績は、「野党不信」を国民に植えつけ、結果として自民党を安定政権に導いていることだ。 いったい、どうしてこうなったのか。 ■ 「反自民」しかない党が、いつの間にか自民の味方に 立憲民主党の主張には一貫性がない。 経済では“財政健全化”を叫びながら、同時に「社会保障の充実」も要求する。 防衛費増額には反対するが、ではどう国を守るのかという現実的提案はない。 結局のところ、立憲民主党は「自民党の逆」を言うことが目的化している。 政策をつくるのではなく、反対すること自体が仕事になっている。 この構図こそが、まさに自民党を利しているのだ。 国民がテレビを見て「野党は批判ばかりだ」と感じるたびに、 自民党の支持は相対的に上がる。 皮肉な話だが、立憲民主党は「自民党を倒す」と言いながら、 その存在自体が自民党の最大の防波堤になっている。 ■ 「緊縮の野党」──国民経済を知らない経済音痴 もっと深刻なのは、立憲民主党の経済政策の中身だ。 彼らはいまだに「財政健全化」「プライマリーバランス黒字化」を掲げている。 つまり、デフレと人口減少に苦しむこの国で、いまだに 緊縮財政を続けよう としているのだ。 これは自民党財務省派と同じ発想であり、国民生活をますます苦しめる。 政府がカネを出さず、需要を削り、増税を維持する。 その結果、賃金は上がらず、物価だけが上がるという最悪の構図を再生産している。 立憲民主党は「格差是正」「生活者のための政治」と言いながら、 実際には財務省と同じ方向を向いている。 つまり、自民党と変わらないどころか、より中途半端で無責任なのだ。 ■ 具体策なき「理念の空論」 たとえばエネルギー政策。 「脱原発」を叫ぶが、代替エネルギーの現実的ビジョンは示さない。 再エネ推進を言うわりに、電力供給の安定策は語られない。 外交においても同様だ。 安全保障の現実には触れず、「平和憲法を守る」という言葉で思考を止める。 この“いい加減な言葉の政治”こそが、立憲民主党の本質である。 理念を語ること自体は悪くない。 だが、 理念しか語らない政治は、無責任な理想論に過ぎない。 ■ 「自民党を倒せな...