誰もが発信者になれる時代に、新聞やテレビはなぜ若い世代から見放されたのか ― オールドメディアの傲慢と凋落 ―
かつて、情報は一部の「選ばれた者」だけが発信できるものだった。
新聞社、テレビ局、出版社。
社会の出来事は、彼らを通してしか私たちのもとへ届かなかった。
視聴者や読者はただ受け取るだけの「情報の消費者」であり、
意見を言うことも、事実を検証することも許されなかった。
しかし、時代は変わった。
今や誰もがスマートフォン一つで、自らの考えを発信できる。
SNS、YouTube、note、ブログ——。
この「誰もが発信者になれる時代」は、
同時に「オールドメディアの権威が崩壊した時代」でもある。
■「上から目線の報道」が通用しなくなった
テレビや新聞が最も誤解しているのは、
「まだ自分たちが世論をつくっている」と思い込んでいることだ。
しかし現実には、世論はすでにネット上で形成されている。
SNSでは、現場の人々や専門家が直接発信し、
記者よりも詳しく、早く、そしてリアルに情報を届けている。
それでもテレビは、かつての栄光を忘れられず、
キャスターが公共の電波で上から目線のコメントを繰り返す。
「我々が社会を正す」「視聴者を導く」というような態度で。
だがその姿勢こそが、視聴者の心を最も遠ざけたのだ。
いまの視聴者は、もはや“教えられる側”ではない。
情報を自分で調べ、検証し、意見を持つ主体なのだ。
■発信者の時代——声はもう独占できない
新しいメディアの時代は、「声の民主化」とも言える。
個人がカメラを回せば、それがニュースになる。
企業の不正も、政治の不透明さも、SNSの告発で明るみに出る。
もはや「報じるかどうか」を決めるのはテレビ局ではない。
現場にいる一人の市民なのだ。
こうした変化を、オールドメディアは脅威として見ている。
だが、それは本来「報道が理想とすべき姿」ではないだろうか。
情報が権力から解き放たれ、自由に流通する社会こそ、
民主主義の根幹であるはずだ。
■「自分たちが正義」という思い上がり
テレビや新聞が長年持っていたのは、
「自分たちは常に正義であり、世論を代表している」という思い込みだ。
しかし、それはもはや通用しない。
SNSの登場によって、彼らの“演出された正義”は簡単に暴かれる。
偏向報道、切り取り、印象操作——。
それらは瞬く間にネット上で検証され、批判される。
にもかかわらず、テレビはその指摘を「誹謗中傷」として退ける。
つまり、変化を受け入れず、視聴者を見下したままなのだ。
この傲慢さこそが、オールドメディアが“見下される側”になった最大の理由である。
■「発信者」たちはもう黙らない
今や、大学教授も主婦も、サラリーマンも学生も、
誰もが自分の意見を持ち、発信し、影響力を持つ時代だ。
YouTubeでは個人の解説動画がテレビ報道を上回る再生数を獲得し、
X(旧Twitter)では市民の投稿が社会を動かす。
この流れはもう止められない。
それは単なる技術革新ではなく、「情報の主権が市民に戻った」ことを意味する。
かつて権威だったテレビが、
その主権を手放す覚悟を持たない限り、再び信頼を取り戻すことはできないだろう。
■結論:必要なのは“謙虚な報道”だ
情報を独占できた時代は終わった。
いま求められているのは、視聴者を「教え諭す」報道ではなく、
共に考え、事実を共有する“謙虚な報道”である。
「自分たちは発信者の一人にすぎない」という自覚を持てるか。
そこに、テレビが再生できるかどうかの分かれ道がある。
かつて「真実を伝える窓」だったテレビは、
今やその窓を曇らせたまま、時代の光を遮っている。
その曇りを払うのは、
もはや視聴者でもネットでもない——テレビ自身の勇気だ。
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