小泉進次郎現象ならぬ“幻想”って、不気味だよね…





総裁選のたびに名前が浮かぶ小泉進次郎氏。政策的な実績もなければ、国政を担う力量も見えない。それでも「次の総理」として囃し立てる人々が後を絶たない。この風潮、滑稽であると同時に、どこか不気味さすら漂う。




“ブランド信仰”という集団催眠

彼を持ち上げる最大の根拠は、父・小泉純一郎の残像だ。「あの改革者の息子だから、きっと何かやってくれるに違いない」。こうした幻想は、もはや冷静な判断を失った集団催眠に近い。


実際の進次郎氏は「セクシー発言」や「レジ袋有料化」くらいしか記憶に残らない。中身は空っぽなのに、それでも「救世主」として祭り上げられる光景は、政治というより一種のカルト儀式だ。




中身のなさが武器になる倒錯

進次郎氏の政策的空白は、推す側にとって「都合の良さ」につながる。理念がなければ、どんな派閥も自分に有利なように利用できる。


つまり彼を担ぐ連中は、国家の未来などどうでもよく、“操り人形”を選びたがっているだけだ。その倒錯が、彼の人気を支えている。




メディアと視聴率の怪しい共犯関係

テレビ局や新聞は、進次郎氏を“商品”として消費する。彼の軽妙な一言や笑顔は、難解な政策論よりも視聴率が取れる。


問題は、それを繰り返すうちに「彼が本当に次期首相にふさわしい」と錯覚する人々が増えてしまうことだ。作られた人気が現実を侵食していくこの状況こそ、政治の不気味さの核心である。




不気味さの正体

進次郎氏を持ち上げる風潮の不気味さは、まさに「空っぽを拝む社会」の縮図だ。中身がないとわかっていながら、誰もそれを直視しようとせず、笑顔と血筋にすがる。


その光景は、政治を論じているというよりも、大衆がスターを偶像化するショーに近い。民主主義がショービジネスに飲み込まれていく瞬間を、私たちは目の前で見せられているのだ。




空虚を讃える国の行く末

小泉進次郎氏本人よりも恐ろしいのは、彼を担ぎ上げて「次期総理」と持ち上げる空気そのものだ。


それは愚かしさを通り越し、国全体が空っぽの器に熱狂する不気味な儀式になりつつある。日本政治が「人気先行」「ブランド信仰」の病から抜け出さない限り、この国の未来は空虚なまま漂い続けるだろう。



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